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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
日光東照宮奥社宝塔前 誓詞奉納演武
2019年03月24日
日光市の世界遺産日光東照宮で最も神聖な場所の德川家康公が眠る「奥社宝塔」前で、德川家ゆかりの武術流派「知心流松平家」(本部・東京都)による奉納演武が行われた。知心流松平家は、播磨の郷土佐々倉家が、德川家康公の祖父松平清康公から論功行賞により松平姓と共に葵紋を与えられ、戦国の世に誕生した。
德川家康公の時代、武を司る家柄として道場を構えた松平家は、剣術刀法を「知心流」または「知心正統派刀流」と、骨法を「聖覚院流八之手」と名乗り、道場での稽古のほか、藩や他家からの剣術指南の要請に応じ、多くの武家屋敷で出張稽古を行ったと記録されている。
長い歴史を有する知心流の刀法は、戦国大名に伝わる武家に欠かせない数々の武術の他、茶の湯などを含む総合的な武家の心と矜持を大事とし、流祖松平家はこれまで御祭神、德川家康公の祖父清康公との所縁を得て、代々その精神を継承している。
德川家康公のご神霊が安置されている御宝塔は、東照宮の中では最も神聖にして神秘な場所とされ、創建以来四百年此の方、朝鮮通信使と琉球使節の奉納品以外には如何なる演武も奉納が叶わず、参拝は德川宗家以外、一度もその門扉が開かれたことがない。演武は、德川家康公の祖父松平清康公からを賜った同流派が改元を前に皇室の安寧と感謝の念を示そうと実施され、東照宮が特別許可した。
松平壽正 知心流松平家第十四代宗家ら約五十人が参列し、開かれることのない奥社の扉をくぐった。第十四代宗家ら三人が真剣を持ち、宝塔前で「門外不出」の刀法を披露した。森閑とした聖域で白刃がきらめいた。
甲賀武士「鉄砲百人組」に所属した遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
德川将軍の日光社参が実施されるときには、警固の目的や知的関心に応じて日光山や日光道中に関する各種の絵図が作成された。そのため各種の日光山の絵図が、大名・旗本の家伝文書中に数多く見られる。
『日光御参詣警固絵図』の供奉者は、事前に江戸城内で足並稽古(行列の予行練習)を行った。百人組の稽古では、德川将軍家慶公の上覧があった。絵図の内、社参では先例が重視され、日光道中のうち金井村・下徳次郎宿(栃木県宇都宮市)での警固と、先回りする百人組が通る脇道が示されている。
『日光神橋勤番絵図』では、警固の立ち位置を組頭は■(朱)、与力は●(朱)、同心組頭は▲(黒)、同心は●(黒)で示した。神橋御番所の前が組頭の御目見場所であり、そこには弓、鑓、赤い袋入りの鉄炮などの武具、捕り物用の三つ道具がすえられ、また○(朱)は三つ葉葵の紋付き提灯、△(朱)は組頭の家紋付きの高張提灯、○(黒)は木行灯が置かれた。これらはただ置かれたのではなく、百人組が警固する象徴として飾られていた。
德川将軍が通行する町場では、その住人が白砂をまき、箒や手桶けを飾ることが命じられた。それらは、德川将軍家の威光を示すためであった。百人組の事例では、武具・捕り物道具がこれに相当した。供奉者それぞれが御目見の場では、その役職や立場にふさわしい道具をもって、自らを象徴的に飾り立てたのである。
■ 松平壽正
本名、明石久雄。 知心流松平家第十四代宗家。73年松平正親知心流松平家第十三代宗家に出会い知心流に入門、第十三代宗家による個人指導を受け内弟子、77年相伝家襲名により松平姓(襲名 松平壽正)と葵紋を賜り、宗家一員。宗家ならびに相伝家道場として、光照寺(増上寺末寺)境内の建物に新たに稽古場(現在の調布柴崎道場)を開設。第十三代宗家から刀法、居合、小太刀、骨法の奥位を授与。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。
德川家康公の時代、武を司る家柄として道場を構えた松平家は、剣術刀法を「知心流」または「知心正統派刀流」と、骨法を「聖覚院流八之手」と名乗り、道場での稽古のほか、藩や他家からの剣術指南の要請に応じ、多くの武家屋敷で出張稽古を行ったと記録されている。
長い歴史を有する知心流の刀法は、戦国大名に伝わる武家に欠かせない数々の武術の他、茶の湯などを含む総合的な武家の心と矜持を大事とし、流祖松平家はこれまで御祭神、德川家康公の祖父清康公との所縁を得て、代々その精神を継承している。
德川家康公のご神霊が安置されている御宝塔は、東照宮の中では最も神聖にして神秘な場所とされ、創建以来四百年此の方、朝鮮通信使と琉球使節の奉納品以外には如何なる演武も奉納が叶わず、参拝は德川宗家以外、一度もその門扉が開かれたことがない。演武は、德川家康公の祖父松平清康公からを賜った同流派が改元を前に皇室の安寧と感謝の念を示そうと実施され、東照宮が特別許可した。
松平壽正 知心流松平家第十四代宗家ら約五十人が参列し、開かれることのない奥社の扉をくぐった。第十四代宗家ら三人が真剣を持ち、宝塔前で「門外不出」の刀法を披露した。森閑とした聖域で白刃がきらめいた。
甲賀武士「鉄砲百人組」に所属した遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
德川将軍の日光社参が実施されるときには、警固の目的や知的関心に応じて日光山や日光道中に関する各種の絵図が作成された。そのため各種の日光山の絵図が、大名・旗本の家伝文書中に数多く見られる。
『日光御参詣警固絵図』の供奉者は、事前に江戸城内で足並稽古(行列の予行練習)を行った。百人組の稽古では、德川将軍家慶公の上覧があった。絵図の内、社参では先例が重視され、日光道中のうち金井村・下徳次郎宿(栃木県宇都宮市)での警固と、先回りする百人組が通る脇道が示されている。
『日光神橋勤番絵図』では、警固の立ち位置を組頭は■(朱)、与力は●(朱)、同心組頭は▲(黒)、同心は●(黒)で示した。神橋御番所の前が組頭の御目見場所であり、そこには弓、鑓、赤い袋入りの鉄炮などの武具、捕り物用の三つ道具がすえられ、また○(朱)は三つ葉葵の紋付き提灯、△(朱)は組頭の家紋付きの高張提灯、○(黒)は木行灯が置かれた。これらはただ置かれたのではなく、百人組が警固する象徴として飾られていた。
德川将軍が通行する町場では、その住人が白砂をまき、箒や手桶けを飾ることが命じられた。それらは、德川将軍家の威光を示すためであった。百人組の事例では、武具・捕り物道具がこれに相当した。供奉者それぞれが御目見の場では、その役職や立場にふさわしい道具をもって、自らを象徴的に飾り立てたのである。
■ 松平壽正
本名、明石久雄。 知心流松平家第十四代宗家。73年松平正親知心流松平家第十三代宗家に出会い知心流に入門、第十三代宗家による個人指導を受け内弟子、77年相伝家襲名により松平姓(襲名 松平壽正)と葵紋を賜り、宗家一員。宗家ならびに相伝家道場として、光照寺(増上寺末寺)境内の建物に新たに稽古場(現在の調布柴崎道場)を開設。第十三代宗家から刀法、居合、小太刀、骨法の奥位を授与。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。