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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
松江歴史館所蔵 江戸始図
2024年10月31日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。
太田道灌公が江戸城を築いたのは1457年(長禄元年)とされ、「赤城神社年代記録」は 3月 1日、「鎌倉大日記」は 4月18日の日付を記している。江戸以前には、大きくわけて太田道灌公を含む扇谷上杉氏の段階、戦国大名北条氏の段階、そして豊臣大名德川家康公が入封した当時の江戸幕府以前の三段階が想定される。
2017年(平成29年)松江歴史館(島根県松江市)は、「初期の江戸城を詳細に描いた最古級絵図が見つかった」と発表した。江戸始図は、城絵図群「極秘諸国城図」に含まれる地図のひとつである。極秘諸国城図は、全国74の城郭を描いた絵図から成り立ち、江戸城の他に大坂城、姫路城、岡崎城などが描かれている。
極秘諸国城図は、1953年(昭和28年)松江城が大改修される際、松江藩の子孫から松江市に寄贈された。そこには松江城が含まれていなかったことから、地元の研究者には注目されず、60年以上の間放置されていた。
しかし、2016年(平成28年)山梨県の歴史学者が甲府城改修の参考のため、松江市に極秘諸国城図の閲覧許可を申請した。それにより、極秘諸国城図の存在が再認識され、広く知られるようになった。城郭考古学を専門とする奈良大学の千田嘉博教授はさらに研究を進め、極秘諸国城図に含まれる江戸城の絵図を発見した。それが「江戸始図」であり、初期の江戸城を示す貴重な史料となった。
江戸城の天守は、1607年(慶長12年)、1623年(元和9年)、1638年(寛永15年)の三回にわたり建てられている。江戸始図に示される初代天守は德川家康公によって築かれ、ニ代目天守は德川秀忠によって築城された。初代天守は小天守を伴う、連立式で五段の層塔型の構造をもち、姫路城のような見た目をしていたと考えられている。
一方、元和年間に建てられたニ代目は、小天守をもたない独立式の天守閣、天守台の規模は二十二間五尺と初代天守と同じで、これは安土城や大坂城をはるかにしのぐ大きさだったとされる。
さらに、德川秀忠公の死後、德川家光が建てたのが三代目天守で。天守台を含めた高さは59m、15~20階建てのビルに相当する高さである。しかし、1657年(明暦3年)の明暦の大火によって天守が焼失する。再建の計画が立てらるが、幕閣の保科正之によって中止された。
この時点では既に德川家光公が亡くなっており、戦乱の世も終焉を迎えていた。保科正之は、「天守は単に遠くを見るための物であり、実用性に乏しい」と主張したことにより、無駄な出費を避けるために、四代目天守は幻となった。初代天守とニ代目、三代目天守では、構造が大きく異なる。初代は小天守をもつ連立式で、のちの天守は小天守をもたない独立式である。
江戸始図が見つかる以前は、江戸城を記した資料としては「慶長江戸絵図」があった。この絵図では、本丸御殿などは描かれているものの、描写のゆがみが大きく、建物と石垣の区別もほとんど分からない。一方、江戸始図では城郭の構造、城壁、門の位置、堀などが正確に描かれており、江戸城の中心部を的確に把握できるようなった。
地図によれば、江戸城が複雑な連立天守であったという事実が発覚した。大天守は詰丸(最終防衛のための曲輪)の南東に位置しており、大天守の周りに小天守が立地されていた。天守間は多聞櫓でつながっている。これにより、本丸が攻め落とされても周囲の天守群で戦いを続けることができるため、高い防御力を有していた。
当時は、関ヶ原の戦いが終わって間もないことから、江戸城で合戦になることを想定し、戦いを有利に進められる城づくりをしていた。また、築城にあたって、德川家康公は西軍として戦った諸大名に建設工事をさせた。「これだけ防御の堅い城は攻めづらい」と、反徳川勢力に対して自らの力を知らしめる意図もあったと言われている。一方で、連立式にすることで、本丸の空間が狭くなってしまうのが難点であった。そのことから、德川秀忠公は単立式天守に変更したのではないかと考えられている。
德川家康公の築いた江戸城には、「連続外枡形」と呼ばれる防衛設備があったのも特徴である。外枡形とは、城の入口や曲がり角に設けられる、凹凸のある構造のことを指し、敵が侵入しにくいように設計されている。連続外枡形は、築城の名手である加藤清正が建てた熊本城にも見られ、強力な軍事機能を果たした。
初代江戸城の連続外枡形は、本丸の南側、五重にわたって外枡形が連続して設けられている。この構造によって、城に侵入しようとする敵は、迷路のような道を通らなければならなかった。城を守る側にとっては、敵の侵入を容易に見つけられ、攻撃もしやすくなった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)にあった。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。
「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
画像:江戸始図(縦 27.6cm、横 40.0cm 松江歴史館所蔵)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
太田道灌公が江戸城を築いたのは1457年(長禄元年)とされ、「赤城神社年代記録」は 3月 1日、「鎌倉大日記」は 4月18日の日付を記している。江戸以前には、大きくわけて太田道灌公を含む扇谷上杉氏の段階、戦国大名北条氏の段階、そして豊臣大名德川家康公が入封した当時の江戸幕府以前の三段階が想定される。
2017年(平成29年)松江歴史館(島根県松江市)は、「初期の江戸城を詳細に描いた最古級絵図が見つかった」と発表した。江戸始図は、城絵図群「極秘諸国城図」に含まれる地図のひとつである。極秘諸国城図は、全国74の城郭を描いた絵図から成り立ち、江戸城の他に大坂城、姫路城、岡崎城などが描かれている。
極秘諸国城図は、1953年(昭和28年)松江城が大改修される際、松江藩の子孫から松江市に寄贈された。そこには松江城が含まれていなかったことから、地元の研究者には注目されず、60年以上の間放置されていた。
しかし、2016年(平成28年)山梨県の歴史学者が甲府城改修の参考のため、松江市に極秘諸国城図の閲覧許可を申請した。それにより、極秘諸国城図の存在が再認識され、広く知られるようになった。城郭考古学を専門とする奈良大学の千田嘉博教授はさらに研究を進め、極秘諸国城図に含まれる江戸城の絵図を発見した。それが「江戸始図」であり、初期の江戸城を示す貴重な史料となった。
江戸城の天守は、1607年(慶長12年)、1623年(元和9年)、1638年(寛永15年)の三回にわたり建てられている。江戸始図に示される初代天守は德川家康公によって築かれ、ニ代目天守は德川秀忠によって築城された。初代天守は小天守を伴う、連立式で五段の層塔型の構造をもち、姫路城のような見た目をしていたと考えられている。
一方、元和年間に建てられたニ代目は、小天守をもたない独立式の天守閣、天守台の規模は二十二間五尺と初代天守と同じで、これは安土城や大坂城をはるかにしのぐ大きさだったとされる。
さらに、德川秀忠公の死後、德川家光が建てたのが三代目天守で。天守台を含めた高さは59m、15~20階建てのビルに相当する高さである。しかし、1657年(明暦3年)の明暦の大火によって天守が焼失する。再建の計画が立てらるが、幕閣の保科正之によって中止された。
この時点では既に德川家光公が亡くなっており、戦乱の世も終焉を迎えていた。保科正之は、「天守は単に遠くを見るための物であり、実用性に乏しい」と主張したことにより、無駄な出費を避けるために、四代目天守は幻となった。初代天守とニ代目、三代目天守では、構造が大きく異なる。初代は小天守をもつ連立式で、のちの天守は小天守をもたない独立式である。
江戸始図が見つかる以前は、江戸城を記した資料としては「慶長江戸絵図」があった。この絵図では、本丸御殿などは描かれているものの、描写のゆがみが大きく、建物と石垣の区別もほとんど分からない。一方、江戸始図では城郭の構造、城壁、門の位置、堀などが正確に描かれており、江戸城の中心部を的確に把握できるようなった。
地図によれば、江戸城が複雑な連立天守であったという事実が発覚した。大天守は詰丸(最終防衛のための曲輪)の南東に位置しており、大天守の周りに小天守が立地されていた。天守間は多聞櫓でつながっている。これにより、本丸が攻め落とされても周囲の天守群で戦いを続けることができるため、高い防御力を有していた。
当時は、関ヶ原の戦いが終わって間もないことから、江戸城で合戦になることを想定し、戦いを有利に進められる城づくりをしていた。また、築城にあたって、德川家康公は西軍として戦った諸大名に建設工事をさせた。「これだけ防御の堅い城は攻めづらい」と、反徳川勢力に対して自らの力を知らしめる意図もあったと言われている。一方で、連立式にすることで、本丸の空間が狭くなってしまうのが難点であった。そのことから、德川秀忠公は単立式天守に変更したのではないかと考えられている。
德川家康公の築いた江戸城には、「連続外枡形」と呼ばれる防衛設備があったのも特徴である。外枡形とは、城の入口や曲がり角に設けられる、凹凸のある構造のことを指し、敵が侵入しにくいように設計されている。連続外枡形は、築城の名手である加藤清正が建てた熊本城にも見られ、強力な軍事機能を果たした。
初代江戸城の連続外枡形は、本丸の南側、五重にわたって外枡形が連続して設けられている。この構造によって、城に侵入しようとする敵は、迷路のような道を通らなければならなかった。城を守る側にとっては、敵の侵入を容易に見つけられ、攻撃もしやすくなった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)にあった。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。
「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
画像:江戸始図(縦 27.6cm、横 40.0cm 松江歴史館所蔵)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。