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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
太田道灌公と江戸城
2024年11月02日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。
太田道灌公が江戸城を築いたのは1457年(長禄元年)とされ「赤城神社年代記録」は、3月1日。「鎌倉大日記」は、4月18日の日付を記している。江戸以前には、大きくわけて太田道灌公を含む扇谷上杉氏の段階、戦国大名北条氏の段階、そして豊臣大名德川家康公が入封した当時の江戸幕府以前の三段階が想定される。
江戸城内部の様相は「寄題江戸城静勝軒詩序」〔北区史記録四一〕 に記載されている。同史料によれば、江戸城は基本的な構造としては切岸と塁そして水堀が周囲を廻っており、そのなかに太田道灌公の居所があったと記されている。日常の空間である「静勝軒」とその背後に構えられた「閣」がある。そして「静勝軒」の側面には「直舎」が建てられていた。そのほかには櫓、番所、倉庫、厩屋などの建物が若干であったと記載されている。
「梅花無尽蔵」〔北区史記録46〕には広い空間を描写されている。その記載によれば、城門の前には市場が設けられていることに加え、塁の構成は子城・中城・外城の三重の構造であった。従前は本丸南端の富士見三重櫓付近を子城にあて、北に向けて台地上を堀切で区画し、中城と外城の空間が連結する連郭式城郭が考えられていた。しかし、記載は三連ではなく、三重である。
加えて、子城・中城・外城の語彙は東アジアでの都城制で使用される語である。梅花無尽蔵の作者は五山僧の万里集九であることを踏まえれば、三重の区画が堀で仕切られ、門と橋で結ばれていたと考えられる。
太田道灌公当時の江戸の町についても、先の「江戸城静勝軒詩序並江亭記等写」に記載がある。城の東畔には川が流れており、南の海に注ぐ。河口には、高橋が架かっていた。その橋の付近には商船・漁船が繋留され、日々市をなしていた。安房・常陸・信濃・越後・相模・和泉などから物資がもたらされ、人々が集まっていた。
この町は、北条氏段階にも続く平川の町場と考えられる。地形図では、常盤橋を通過する河道は神田山の山裾を切り通していることが明らかであり、人為的な河道である。平川の町場を城下町の中心とし、江戸城平河門付近が当該地とするならば、町場と橋と河口が一致する叙述であることから、平川の流れは竹橋門から大手門付近で日比谷入り江に注いでいたことになる。
江戸時代の記録や伝承には、平川より移転した寺社の存在を伝えている。
平河天満宮
千代田区平河町に移転している平河天満宮は、1478年(文明10年)6月25日太田道灌公が建立した。〔北区史ニー八〕 棟札写の「豊島郡江戸平河城内」の記載では、天満宮は平川に建立されたとある。太田道灌公を尋ねた万里集九は、平川天満宮が「江戸城之北畔」に建っていたことを『梅花無尽蔵』に記しており、梅が数百株ほど栽培されていたとある。この景観が、梅林坂の語源となった。
吉祥寺(曹洞宗)
平川の東端付近と推測される和田倉には、吉祥寺があった。江戸築城の頃、太田道灌公が諏訪明神の境内地に建立した。この付近に諏訪明神があったことも窺える。同寺は第五代古河公方足利義氏の母で北条氏綱娘であった芳春院の位牌寺であり、両家から手厚い保護を受けていた。〔戦国遺文古河公方九二四ほか〕
平河山法恩寺(日蓮宗)
京都六条本捌寺の直末であった法恩寺も中世には、平川にあった。1524年(大永4年)には、北条氏綱が陣衆不入と諸役停止を認めるほか、所領を寄進する。〔北区史二九七〕(同二九八)1548年(天文17年)には、太田康資公が所領を寄進している。この時の宛先は「江戸平川法恩寺」となっており、確実に平川に所在したことを示す。〔北区史356〕
平河山浄土寺(浄土宗)
同寺は、1503年(文亀3年)創建の伝承がある。
善龍山榜厳寺(天台宗)
同寺は、1540年(天文9年)11月26日に山門派別当宣慶が勅を受けて寺号を与えられている。
これらの寺社は、江戸時代初頭に大名屋敷地を確保するために移転を迫られることになる。しかし、法恩寺や浄土寺は山号に平河を冠しており、故地との結びつきがある。天満宮においては、名称そのものである。
■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。里子は、遠藤武遠藤宗家第十五代当主夫人。室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。
太田道灌公が江戸城を築いたのは1457年(長禄元年)とされ「赤城神社年代記録」は、3月1日。「鎌倉大日記」は、4月18日の日付を記している。江戸以前には、大きくわけて太田道灌公を含む扇谷上杉氏の段階、戦国大名北条氏の段階、そして豊臣大名德川家康公が入封した当時の江戸幕府以前の三段階が想定される。
江戸城内部の様相は「寄題江戸城静勝軒詩序」〔北区史記録四一〕 に記載されている。同史料によれば、江戸城は基本的な構造としては切岸と塁そして水堀が周囲を廻っており、そのなかに太田道灌公の居所があったと記されている。日常の空間である「静勝軒」とその背後に構えられた「閣」がある。そして「静勝軒」の側面には「直舎」が建てられていた。そのほかには櫓、番所、倉庫、厩屋などの建物が若干であったと記載されている。
「梅花無尽蔵」〔北区史記録46〕には広い空間を描写されている。その記載によれば、城門の前には市場が設けられていることに加え、塁の構成は子城・中城・外城の三重の構造であった。従前は本丸南端の富士見三重櫓付近を子城にあて、北に向けて台地上を堀切で区画し、中城と外城の空間が連結する連郭式城郭が考えられていた。しかし、記載は三連ではなく、三重である。
加えて、子城・中城・外城の語彙は東アジアでの都城制で使用される語である。梅花無尽蔵の作者は五山僧の万里集九であることを踏まえれば、三重の区画が堀で仕切られ、門と橋で結ばれていたと考えられる。
太田道灌公当時の江戸の町についても、先の「江戸城静勝軒詩序並江亭記等写」に記載がある。城の東畔には川が流れており、南の海に注ぐ。河口には、高橋が架かっていた。その橋の付近には商船・漁船が繋留され、日々市をなしていた。安房・常陸・信濃・越後・相模・和泉などから物資がもたらされ、人々が集まっていた。
この町は、北条氏段階にも続く平川の町場と考えられる。地形図では、常盤橋を通過する河道は神田山の山裾を切り通していることが明らかであり、人為的な河道である。平川の町場を城下町の中心とし、江戸城平河門付近が当該地とするならば、町場と橋と河口が一致する叙述であることから、平川の流れは竹橋門から大手門付近で日比谷入り江に注いでいたことになる。
江戸時代の記録や伝承には、平川より移転した寺社の存在を伝えている。
平河天満宮
千代田区平河町に移転している平河天満宮は、1478年(文明10年)6月25日太田道灌公が建立した。〔北区史ニー八〕 棟札写の「豊島郡江戸平河城内」の記載では、天満宮は平川に建立されたとある。太田道灌公を尋ねた万里集九は、平川天満宮が「江戸城之北畔」に建っていたことを『梅花無尽蔵』に記しており、梅が数百株ほど栽培されていたとある。この景観が、梅林坂の語源となった。
吉祥寺(曹洞宗)
平川の東端付近と推測される和田倉には、吉祥寺があった。江戸築城の頃、太田道灌公が諏訪明神の境内地に建立した。この付近に諏訪明神があったことも窺える。同寺は第五代古河公方足利義氏の母で北条氏綱娘であった芳春院の位牌寺であり、両家から手厚い保護を受けていた。〔戦国遺文古河公方九二四ほか〕
平河山法恩寺(日蓮宗)
京都六条本捌寺の直末であった法恩寺も中世には、平川にあった。1524年(大永4年)には、北条氏綱が陣衆不入と諸役停止を認めるほか、所領を寄進する。〔北区史二九七〕(同二九八)1548年(天文17年)には、太田康資公が所領を寄進している。この時の宛先は「江戸平川法恩寺」となっており、確実に平川に所在したことを示す。〔北区史356〕
平河山浄土寺(浄土宗)
同寺は、1503年(文亀3年)創建の伝承がある。
善龍山榜厳寺(天台宗)
同寺は、1540年(天文9年)11月26日に山門派別当宣慶が勅を受けて寺号を与えられている。
これらの寺社は、江戸時代初頭に大名屋敷地を確保するために移転を迫られることになる。しかし、法恩寺や浄土寺は山号に平河を冠しており、故地との結びつきがある。天満宮においては、名称そのものである。
■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。里子は、遠藤武遠藤宗家第十五代当主夫人。室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。