遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

長岡京遷都記念 大極殿祭

2024年11月11日
遠藤宗家は第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜った。千葉氏流東常慶が遠藤盛数を養子に迎え、遠藤氏を呼称して美濃国に七千五百石を領した。その子の遠藤慶隆は美濃斉藤氏、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の合戦では東軍徳川家康に味方し、その功績により美濃郡上二万七千石藩主となった。

平城京から長岡京に遷都された日を記念する「大極殿祭」が、京都府向日市向日町の向日神社の乙訓剣道場で開かれた。「大極殿祭」は、1895年(明治二十八年)から大極殿遺蹟保存協賛会が、遷都された784年(延暦三年)11月11日にちなみ、毎年開催している。

桓武天皇が政務を行った大極殿跡に整備された大極殿公園で開催しているが、この日は荒天が予想されたため場所を変更した。桓武天皇により平城京から遷都され、794年(延暦十三年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。

乙訓地域の神職が供物を献上し、祝詞を読み上げた。雅楽の演奏や舞の奉納もあり、参列者が厳かな儀式を見守った。大極殿遺蹟保存協賛会の稲本收一会長は「この地で育った私たちは、歴史遺産を守り、後世に伝える責務がある」と挨拶した。

1200年以上前の建物の名称「大極殿」は、桓武天皇が政治を司る都の中でも最も重要な場所であり、「小安殿」は大極殿の後ろの建物のことで、「後殿」とも呼ばれている。1964年(昭和三十九年)国の史跡に指定され、現在、大極殿公園として市民の憩いの場となっている。

桓武天皇が平城京から長岡京への遷都を決断した理由は「既存の仏教勢力や貴族勢力と距離を置くため」「新京の周辺地域を治める渡来系氏族との関係を構築するため」「皇統が天武系から天智系に戻ったことを世に示すため」などの説がある。

菅野真道などが797年(延暦十五年)に編纂した「続日本紀」によると、桓武天皇は側近の藤原種継に対し、遷都先の第一条件として「物資の運搬に便利な大きな川がある場所」を挙げている。平城京における物資輸送の玄関口は、難波津。しかし、海岸線が土砂の堆積によって徐々に後退し、762年(和銅三年)難波津で遣唐使船が座礁するなど、港としての機能を失いつつあった。

平城京は、水資源が少ないという欠点も抱えていることにより、桓武天皇は三国川の河口に着目し、長岡京遷都と同時に淀川と直結させる工事を行っている。主な水源は平城京内を流れる佐保川だったと考えられ、最盛期には20万人を超える人々が暮らしていたこともあり、井戸水は枯渇した。河川は、生活排水による汚染が進んでいたと考えられ、その結果伝染病も発生し、豊かな水資源がある場所への遷都が、喫緊の課題になった。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。