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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
佐野市の歴史
2024年11月25日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚である戸末期~明治初期に活躍した開成学園の前身の共立学校を創立した佐野鼎加賀金沢藩士「先祖由緒一類附」は、佐野源左衛門常世八世の孫新左衛門景政より筆を起こしている。明治28年(1895年)共立学校が開成学園と改名されてから、令和3年(2021年)学校創立150周年という節目の年を迎えた。
佐野家の過去帳の最初には「駿河国富士郡蓼原邑佐野源左衛門末裔なり」と書かれており、かつては下野佐野城(唐沢山城)の城主であった。佐野源左衛門は謡曲「鉢木」の登場人物である。「邑」は集落であり、いくつかの邑を集めて郷となっていた(郷里制)。「郷」とは奈良時代に定められた地方の行政区であり、最下位の単位(年貢の徴収に適用される単位)。それまでは「里(り)」となっていた。そののちに「郷」のもとに「邑」が定められた。
「佐野」の地名が、記録上、初めて登場するのは、平安時代の荘園名である「佐野庄」という記事からである。「兵範記」という当時の記録には、左大臣藤原頼長に寄進されていた荘園が、保元の乱(1157年)で勝利した後白河天皇の所有になったことが書かれている。そして、佐野庄は後白河天皇の側に立った藤原秀郷の子孫と称する藤姓足利氏(後の佐野氏)とその一族によって治められるようになった。
源頼朝が挙兵すると、佐野氏は頼朝に味方し、源平合戦や奥州平泉の藤原氏討伐に従軍し、鎌倉幕府から御家人として認められた。さらに、南北朝の動乱が起こると、佐野氏一族は北朝方と南朝方に分裂し、同族内で対立することになった。室町時代になると、北朝方についた佐野氏は関東地方北部を治めた古河公方に代々仕え、一族のなかから有力なものが戦国大名佐野氏に成長した。
戦国時代末期、佐野氏は、現在の佐野市とその周辺を支配し、その拠点になったのが唐沢山城である。佐野は交通の要衝にあるため、越後の上杉氏や相模の北条氏などにも攻められ、たびたび改修が加えられた結果、高石垣を備えた関東でも有数の山城になった。
江戸時代のはじめ唐沢山城主佐野信吉は、佐野城(現城山公園)の地に移城するよう幕府から命じられ、さらに慶長19年(1614年)所領も没収され、佐野氏の支配は終わりを告げた。信吉の改易以後、佐野地方は幕府の直轄地となり、次いで元和2年(1616年)譜代大名本多正純の領地となるも、同8年正純も改易され、再び幕府直轄地となった。その後、彦根藩、古河藩、館林藩などに統治され、彦根藩以外は長く続かず、やがて堀田佐野藩や対馬藩、多くの旗本知行地に分割統治されることになった。
明治2年(1869年)政府は、各大名に命じて領地を天皇に返上させ、藩主を知藩事に任命し、さらに2年後には廃藩置県を行った。そのため彦根県や佐野県ができるものの、わずか4ヵ月で栃木県に統合された。そして、明治22年(1889年)に市制・町村制が施行され、現在に繋がる原型となった。平成17年(2005年)佐野市、田沼町、葛生町の1市2町が新設合併し、現在の佐野市が誕生した。
画像:願成寺 佐野源左衛門常世の墓(市指定文化財)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
佐野家の過去帳の最初には「駿河国富士郡蓼原邑佐野源左衛門末裔なり」と書かれており、かつては下野佐野城(唐沢山城)の城主であった。佐野源左衛門は謡曲「鉢木」の登場人物である。「邑」は集落であり、いくつかの邑を集めて郷となっていた(郷里制)。「郷」とは奈良時代に定められた地方の行政区であり、最下位の単位(年貢の徴収に適用される単位)。それまでは「里(り)」となっていた。そののちに「郷」のもとに「邑」が定められた。
「佐野」の地名が、記録上、初めて登場するのは、平安時代の荘園名である「佐野庄」という記事からである。「兵範記」という当時の記録には、左大臣藤原頼長に寄進されていた荘園が、保元の乱(1157年)で勝利した後白河天皇の所有になったことが書かれている。そして、佐野庄は後白河天皇の側に立った藤原秀郷の子孫と称する藤姓足利氏(後の佐野氏)とその一族によって治められるようになった。
源頼朝が挙兵すると、佐野氏は頼朝に味方し、源平合戦や奥州平泉の藤原氏討伐に従軍し、鎌倉幕府から御家人として認められた。さらに、南北朝の動乱が起こると、佐野氏一族は北朝方と南朝方に分裂し、同族内で対立することになった。室町時代になると、北朝方についた佐野氏は関東地方北部を治めた古河公方に代々仕え、一族のなかから有力なものが戦国大名佐野氏に成長した。
戦国時代末期、佐野氏は、現在の佐野市とその周辺を支配し、その拠点になったのが唐沢山城である。佐野は交通の要衝にあるため、越後の上杉氏や相模の北条氏などにも攻められ、たびたび改修が加えられた結果、高石垣を備えた関東でも有数の山城になった。
江戸時代のはじめ唐沢山城主佐野信吉は、佐野城(現城山公園)の地に移城するよう幕府から命じられ、さらに慶長19年(1614年)所領も没収され、佐野氏の支配は終わりを告げた。信吉の改易以後、佐野地方は幕府の直轄地となり、次いで元和2年(1616年)譜代大名本多正純の領地となるも、同8年正純も改易され、再び幕府直轄地となった。その後、彦根藩、古河藩、館林藩などに統治され、彦根藩以外は長く続かず、やがて堀田佐野藩や対馬藩、多くの旗本知行地に分割統治されることになった。
明治2年(1869年)政府は、各大名に命じて領地を天皇に返上させ、藩主を知藩事に任命し、さらに2年後には廃藩置県を行った。そのため彦根県や佐野県ができるものの、わずか4ヵ月で栃木県に統合された。そして、明治22年(1889年)に市制・町村制が施行され、現在に繋がる原型となった。平成17年(2005年)佐野市、田沼町、葛生町の1市2町が新設合併し、現在の佐野市が誕生した。
画像:願成寺 佐野源左衛門常世の墓(市指定文化財)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。