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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
天然指定物指定以前の石神井公園
2025年02月11日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。
豊島氏の城館であった石神井城跡(東京都指定史跡)は、三宝寺池の南にある石神井川の谷との間の台地に位置している。鎌倉時代中期~末期頃の築城と考えられ、文明9年(1477年)、豊島勘解由左衛門尉が城主の時に太田道灌公によって攻め落とされた。以後、廃城となり、城の中心部分にあたる内郭の土塁と空堀は現存している。平成10年(1998年)、約5メートルの深さの空堀を発掘、平成12年(2000年)、土塁の盛土下層から鉄製小刀が出土している。
遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の親戚である栗原秀雄栗原家当主の先祖は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などをふくむ広大な土地を所有していた。そのことから、遠藤宗家第十八代 遠藤 潔の曽祖父である栗原鉚三 栗原家当主が石神井村村長等を歴任し、現在の練馬区の基礎を構築した。
石神井公園は、大正期以降、栗原鉚三石神井村長(石神井風致協会会長)が、武蔵野の景観を維持しながら、新しい観光資源を創出してきた歴史がある。石神井公園の核である三宝寺池は、最も大きな水源で、池の小島にある弁天社(厳島神社)は、水の恩恵を受ける石神井川流域の人々から信仰されていた。江戸時代後期にあると、三宝寺は「江戸名所図会」などで紹介され、景観が素晴らしい名所として知られるようになった。
明治期になると、武蔵野の田園風景が評価されるようになり、訪れることができるのは一部の人に限られていた。1914年(大正4年)、武蔵野鉄道が開通すると、多くの人々が三宝寺池周辺を訪れるようになり、地元でも駅との連絡路やプール、水上自転車など観光のための整備が進められた。その後、石神井池(ボート池)が造られると、行楽地として人々に親しまれるようになった。
昭和戦前期になると、石神井周辺も宅地化が進み、東京郊外の環境を維持するという見地から、三宝寺池周辺が1930年(昭和5年)、風致地区に指定された。また、1935年(昭和10年)、三宝寺池沼沢植物群落が天然記念物に指定された。
【 天然記念物指定以前の沿革 】
天保7年(1836年)、三宝寺池が「江戸名所図会」に掲載。
大正4年(1915年)、武蔵野鉄道(現西武池袋線)が開通。
大正6年(1917年)、栗原鉚三石神井村村長が、三宝寺池周辺道路、石神井城跡に人口滝を造成、太鼓橋、水道自転車、遊園施設を設備。
大正7年(1918年)、栗原鉚三石神井村村長が池岬の土地を提供し、水辺観察園付近に日本初の100ⅿプールの東京府営石神井水泳場開場。
昭和5年(1930年)、三宝寺池周辺を石神井風致地区に指定。
昭和6年(1931年)、栗原鉚三石神井村村長が、三宝寺池周辺を東京府立公園にするよう請願書を東京府知事へ提出。
昭和7年(1932年)、栗原鉚三石神井村村長が、社団法人石神井風致協会会長に就任。
昭和8年(1933年)、武蔵野鉄道が石神井駅を石神井公園駅に改称。
昭和10年(1935年)、三宝寺池沼沢植物群落が、天然記念物に指定。
平成23年(2011年)、石神井城跡が、東京都史跡に指定。
※画像;石神井公園水辺観察園(大正9年)
■ 栗原鉚三
旧上石神井村の名主。三宝寺檀家総代。
石神井村村長 1916年~1932年(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)
≪ 石神井村沿革 ≫
1872年(明治4年)東京府へ編入。新宿口第22区(谷原・田中)、第18区(石神井・関)に属す。1873年(明治6年)朱引外大小区改正により東京府第8大区7小区(谷原・田中)、8小区(石神井・関)にそれぞれ改称。1878年(明治11年)郡区町村編制法施行により東京府北豊島郡の所属となり、谷原村・田中村、下石神井村、上石神井村・竹下新田・関村の3つの戸長役場が定められた。1889年(明治22年)町村制施行に伴う合併(明治の大合併)上石神井村、下石神井村、谷原村、田中村(田中新田を含む)、関村の5村に加えて上土支田村を合併し東京府北豊島郡石神井村となる。(各村は大字となる)1891年(明治24年)大字上土支田を分離。石神井村大字上土支田は大泉村大字上土支田となる。1932年(昭和7年)板橋区成立。東京市が隣接5郡(豊多摩郡・北豊島郡・荏原郡・南足立郡・南葛飾郡)82町村を編入。練馬地区には練馬派出所と石神井派出所が設置。後に、練馬派出所は練馬支所、石神井派出所は石神井出張所へと昇格。石神井村は7町に分立し、石神井谷原町(旧:谷原村、現:谷原、高野台、富士見台)、石神井北田中町(旧:田中新田、現:三原台)、石神井南田中町(旧:田中村の田中新田を除く、現:南田中)、上石神井町(旧:上石神井村、現:上石神井、石神井台)、下石神井町(旧:下石神井村、現:下石神井、石神井町、上石神井南町)、石神井関町(旧:関村、竹下新田、現:関町北、関町南、関町東)、石神井立野町(旧:上石神井村立野の飛地、現:立野町)、1943年(昭和18年)東京都制が施行。旧石神井村は東京都板橋区に属す。1947年(昭和22年)練馬区独立。
石神井郵便局局長 1922年(大正11年)
≪ 石神井郵便局沿革 ≫
1922年(大正11年)請願による3等郵便局として開局。(下石神井1315番地・現在の石神井町3丁目20番)1924年(大正13年)集配業務を開始。1927年(昭和2年)電話通話事務を開始。1927年(昭和2年)電信事務を開始。1927年(昭和2年)電話交換業務を開始。1937年(昭和12年)2等局に昇格。等級制は昭和16年勅令第95号(1941年2月1日施行)により廃止。1947年(昭和22年)下石神井2丁目1217番地(現・石神井町6丁目1番)に電話分室を設置。1949年(昭和24年)郵政省・電気通信省発足により電信電話事務を分離。1951年(昭和26年)下石神井2丁目1301番地(現・石神井公園駅前郵便局)に移転。1956年(昭和31年)電話通話事務の取扱を開始。1957年(昭和32年)和文電報受付事務の取扱を開始。1960年(昭和35年)下石神井2丁目1365番地(現・石神井町2丁目8番)に分室を設置(郵便業務)。1964年(昭和39年)現在地に新築移転。1999年(平成11年)外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。2007年(平成19年)民営化に伴い、併設された郵便事業石神井支店に一部業務を移管。2012年(平成24年)日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便事業石神井支店を石神井郵便局に統合。2016年(平成28年)ゆうゆう窓口の24時間営業を廃止。
豊島氏の城館であった石神井城跡(東京都指定史跡)は、三宝寺池の南にある石神井川の谷との間の台地に位置している。鎌倉時代中期~末期頃の築城と考えられ、文明9年(1477年)、豊島勘解由左衛門尉が城主の時に太田道灌公によって攻め落とされた。以後、廃城となり、城の中心部分にあたる内郭の土塁と空堀は現存している。平成10年(1998年)、約5メートルの深さの空堀を発掘、平成12年(2000年)、土塁の盛土下層から鉄製小刀が出土している。
遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の親戚である栗原秀雄栗原家当主の先祖は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などをふくむ広大な土地を所有していた。そのことから、遠藤宗家第十八代 遠藤 潔の曽祖父である栗原鉚三 栗原家当主が石神井村村長等を歴任し、現在の練馬区の基礎を構築した。
石神井公園は、大正期以降、栗原鉚三石神井村長(石神井風致協会会長)が、武蔵野の景観を維持しながら、新しい観光資源を創出してきた歴史がある。石神井公園の核である三宝寺池は、最も大きな水源で、池の小島にある弁天社(厳島神社)は、水の恩恵を受ける石神井川流域の人々から信仰されていた。江戸時代後期にあると、三宝寺は「江戸名所図会」などで紹介され、景観が素晴らしい名所として知られるようになった。
明治期になると、武蔵野の田園風景が評価されるようになり、訪れることができるのは一部の人に限られていた。1914年(大正4年)、武蔵野鉄道が開通すると、多くの人々が三宝寺池周辺を訪れるようになり、地元でも駅との連絡路やプール、水上自転車など観光のための整備が進められた。その後、石神井池(ボート池)が造られると、行楽地として人々に親しまれるようになった。
昭和戦前期になると、石神井周辺も宅地化が進み、東京郊外の環境を維持するという見地から、三宝寺池周辺が1930年(昭和5年)、風致地区に指定された。また、1935年(昭和10年)、三宝寺池沼沢植物群落が天然記念物に指定された。
【 天然記念物指定以前の沿革 】
天保7年(1836年)、三宝寺池が「江戸名所図会」に掲載。
大正4年(1915年)、武蔵野鉄道(現西武池袋線)が開通。
大正6年(1917年)、栗原鉚三石神井村村長が、三宝寺池周辺道路、石神井城跡に人口滝を造成、太鼓橋、水道自転車、遊園施設を設備。
大正7年(1918年)、栗原鉚三石神井村村長が池岬の土地を提供し、水辺観察園付近に日本初の100ⅿプールの東京府営石神井水泳場開場。
昭和5年(1930年)、三宝寺池周辺を石神井風致地区に指定。
昭和6年(1931年)、栗原鉚三石神井村村長が、三宝寺池周辺を東京府立公園にするよう請願書を東京府知事へ提出。
昭和7年(1932年)、栗原鉚三石神井村村長が、社団法人石神井風致協会会長に就任。
昭和8年(1933年)、武蔵野鉄道が石神井駅を石神井公園駅に改称。
昭和10年(1935年)、三宝寺池沼沢植物群落が、天然記念物に指定。
平成23年(2011年)、石神井城跡が、東京都史跡に指定。
※画像;石神井公園水辺観察園(大正9年)
■ 栗原鉚三
旧上石神井村の名主。三宝寺檀家総代。
石神井村村長 1916年~1932年(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)
≪ 石神井村沿革 ≫
1872年(明治4年)東京府へ編入。新宿口第22区(谷原・田中)、第18区(石神井・関)に属す。1873年(明治6年)朱引外大小区改正により東京府第8大区7小区(谷原・田中)、8小区(石神井・関)にそれぞれ改称。1878年(明治11年)郡区町村編制法施行により東京府北豊島郡の所属となり、谷原村・田中村、下石神井村、上石神井村・竹下新田・関村の3つの戸長役場が定められた。1889年(明治22年)町村制施行に伴う合併(明治の大合併)上石神井村、下石神井村、谷原村、田中村(田中新田を含む)、関村の5村に加えて上土支田村を合併し東京府北豊島郡石神井村となる。(各村は大字となる)1891年(明治24年)大字上土支田を分離。石神井村大字上土支田は大泉村大字上土支田となる。1932年(昭和7年)板橋区成立。東京市が隣接5郡(豊多摩郡・北豊島郡・荏原郡・南足立郡・南葛飾郡)82町村を編入。練馬地区には練馬派出所と石神井派出所が設置。後に、練馬派出所は練馬支所、石神井派出所は石神井出張所へと昇格。石神井村は7町に分立し、石神井谷原町(旧:谷原村、現:谷原、高野台、富士見台)、石神井北田中町(旧:田中新田、現:三原台)、石神井南田中町(旧:田中村の田中新田を除く、現:南田中)、上石神井町(旧:上石神井村、現:上石神井、石神井台)、下石神井町(旧:下石神井村、現:下石神井、石神井町、上石神井南町)、石神井関町(旧:関村、竹下新田、現:関町北、関町南、関町東)、石神井立野町(旧:上石神井村立野の飛地、現:立野町)、1943年(昭和18年)東京都制が施行。旧石神井村は東京都板橋区に属す。1947年(昭和22年)練馬区独立。
石神井郵便局局長 1922年(大正11年)
≪ 石神井郵便局沿革 ≫
1922年(大正11年)請願による3等郵便局として開局。(下石神井1315番地・現在の石神井町3丁目20番)1924年(大正13年)集配業務を開始。1927年(昭和2年)電話通話事務を開始。1927年(昭和2年)電信事務を開始。1927年(昭和2年)電話交換業務を開始。1937年(昭和12年)2等局に昇格。等級制は昭和16年勅令第95号(1941年2月1日施行)により廃止。1947年(昭和22年)下石神井2丁目1217番地(現・石神井町6丁目1番)に電話分室を設置。1949年(昭和24年)郵政省・電気通信省発足により電信電話事務を分離。1951年(昭和26年)下石神井2丁目1301番地(現・石神井公園駅前郵便局)に移転。1956年(昭和31年)電話通話事務の取扱を開始。1957年(昭和32年)和文電報受付事務の取扱を開始。1960年(昭和35年)下石神井2丁目1365番地(現・石神井町2丁目8番)に分室を設置(郵便業務)。1964年(昭和39年)現在地に新築移転。1999年(平成11年)外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。2007年(平成19年)民営化に伴い、併設された郵便事業石神井支店に一部業務を移管。2012年(平成24年)日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便事業石神井支店を石神井郵便局に統合。2016年(平成28年)ゆうゆう窓口の24時間営業を廃止。