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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
第50代天皇 桓武天皇が即位
2025年04月30日
桓武天皇は、中大兄皇子として知られる第38代天智天皇の孫白壁王のちの光仁天皇の第1皇子として、737年(天平9年)に生まれた。諱(いみな:生前の実名)は山部と言い、諡(おくりな:死後に贈られる名)は日本根子皇統弥照天皇で、一般的に知られる漢風諡号(かんふうしごう:生前の行跡に基づいて死後に贈られる名)の桓武は「威厳に満ちた武」という意味である。また、在位期間の元号から延暦帝や、陵墓の名称から柏原帝とも呼ばれている。
桓武天皇の母は、百済系渡来人の血統である高野新笠で、百済王の子孫とされている人物である。桓武天皇自身も「百済王等は朕が外戚なり」と発言していたと伝えられており、それまでの天皇とは異なる血統であることを、強く自覚していたことが分かる。このような血筋が、桓武天皇に新たな時代を切り拓いていく意欲を湧かせ、天皇の権威を強めながら政治を行う動機になったと考えられる。皇位継承後に、中国で天地や皇祖を祀る祭りである郊祀を行ったのも、そうした気持ちの表れだった。
当初、桓武天皇は皇族ではなく、官僚としての未来が期待されていたため、770年(宝亀元年)に大学頭(だいがくのかみ:官僚育成機関長)と侍従に任命されていた。
しかし、父である白壁王(光仁天皇)が即位したことによって、773年(宝亀4年)に皇太子となる。この際、桓武天皇の母が百済系渡来人の血筋で身分が低いことから、立太子を反対する声も上がるも、父である光仁天皇重臣の藤原百川らによって、山部親王(後の桓武天皇)が擁立されたと言われている。781年(天応元年4月3日)高齢であった光仁天皇から譲位されて即位した桓武天皇は、同母弟である早良親王を皇太子に立てた。
784年(延暦3年)桓武天皇は政情不安や疫病流行といった世の流れを変えるために、平城京(現在の奈良県奈良市)から遷都することを決意する。藤原百川の甥である藤原種継の進言から、山背国(桓武天皇が山城国と改称する:現在の京都府南部)が新都の地に選ばれ、準備を進めていた。
ところが、翌年の785年(延暦4年)遷都の指揮を執る藤原種継が暗殺される事件が起こる。臣下の中で最も信頼を寄せられ、遷都を主導していた藤原種継の死は、世の中に衝撃を与えた。事件の首謀者は、藤原氏と対立する大伴氏と佐伯氏で、奈良時代から続く藤原氏と非藤原氏の権力争いが原因だと言われている。
また、首謀者を駆り立てたのは、万葉歌人として知られる大伴家持で、皇太子御所の内政担当である春宮坊の官人達も事件に関係していたことが発覚した。藤原氏の対抗勢力の背景には、桓武天皇政権の転覆を企む者達や、次期政権を担う皇太子側近がかかわっていた。
こうして早良親王は嫌疑をかけられ、すでに亡くなっていた大伴家持の官位剥奪とともに、早良親王も皇太子を廃立されることとなった。
事件後、早良親王は乙訓寺(現在の京都府長岡京市)に幽閉され、淡路へ配流された。しかし、この刑罰に反発した早良親王は幽閉時に絶食を続けたため、淡路への移送途中で衰弱して亡くなった。そののち、新たな皇太子に桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が立てられ事態は収束へ向かった。
ところが、この直後に藤原百川の長女で桓武天皇夫人の藤原旅子が若くして急死し、母である高野新笠と、皇后藤原乙牟漏も病気で命を落とした。桓武天皇の親族に不幸が立て続けに起こり、安殿皇太子も病気がちとなったため、桓武天皇は陰陽師に原因を占わせた。すると、陰陽師から「早良親王の祟りの仕業だろう」と告げられ、桓武天皇は早良親王の怨霊に怯えるようになった。
このままでは、政治に支障をきたすと考えた桓武天皇は、新たな遷都計画を打ち出した。そして、桓武天皇は怨霊が留まる長岡京(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)から、794年(延暦13年)に平安京(現在の京都市)へ都を遷した。
遷都後も、桓武天皇は早良親王の怨霊に怯える日々を送り、早良親王の霊を祀るなど、怨霊対策に講じていた。さらに、800年(延暦19年)には早良親王に祟道天皇の諡号を贈り、早良親王の鎮魂のために諸国の国分寺で読経を行わせたと言われている。不安定な世の情勢や不幸が続くなかで、桓武天皇は必死に怨霊対策を行い、天皇としての力量のなさを人民に感じさせてはいけないと考えていた。
桓武政権の中枢である藤原種継の死や、早良親王による祟りなど、苦難の幕開けとなった桓武天皇の治世は、これらの事件は桓武政権に思いがけない効果を与えた。事件後に反藤原勢力が排除されたことで、朝政は安定を取り戻し、桓武政権はかえって基盤を固めた。
また、藤原種継のように優秀な政治家が現れなかったことで、それまでの天皇に比べて政治に積極的な桓武天皇の権威は高まり、独裁的な親政を行う土台が整えられた。こうして、桓武天皇は25年間という長い治世の中で、独自の政権を築き上げていった。
桓武天皇の治世で代表的な平安京造営は、平城京から長岡京へ遷都したことにも、桓武政権独自の改革が関係している。桓武天皇は、それまでの奈良仏教による政治を嫌い、国家仏教と政治の分断を望んでいた。そのため、奈良仏教が蔓延る平城京を脱し、新たな地で人心一新を図るために長岡京へ遷都した。
桓武天皇は、奈良仏教で権力を持った寺院を置き去りにし、鎮護国家思想の原点である東大寺(現在の奈良県奈良市)の移転でさえ禁じた。そして、僧侶が政治に介入することを阻止し、桓武天皇自身が積極的に新たな政策を執行していった。
桓武天皇は、既存の奈良仏教に圧力をかける一方、比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)を開山したことで知られる最澄を唐に送り、天台宗を学ばせた。桓武政権は、仏教と政治の分断を図りつつ、日本仏教に新たな風を吹かせていた。
桓武天皇が平安京造営と同時に注力していた政策が、蝦夷(現在の関東から東北、北海道などに住んでいた人々)平定である。父である光仁天皇の時代から本格化していた蝦夷討伐を引き継ぎ、桓武天皇は東北地方平定のために、3度にわたる蝦夷討伐を行った。
794年(延暦13年)に行われた2度目の討伐では、拠点である多賀城(宮城県多賀城市)に征夷大将軍に任命した坂上田村麻呂を派遣した。そして、801年(延暦20年)に3度目の討伐で、坂上田村麻呂が率いる官軍は500人ほどの蝦夷軍を降伏させ、胆沢城(岩手県奥州市)や志波城(岩手県盛岡市)を築いた。これにより、桓武政権は東国の国土確定を進行し、現代日本の起点とも言える日本の領土を定めた。
そののち、804年(延暦23年)には坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、4度目の蝦夷討伐準備を行った。翌年の805年(延暦24年)、討伐を前に桓武天皇は信頼を寄せる公卿の菅野真道と藤原百川の長男藤原緒嗣を呼び、徳政について論じさせた。
この議論の場で藤原緒嗣から、平安京造営と蝦夷討伐が民衆を疲弊させていると指摘を受けた。藤原緒嗣の批判を受け入れた桓武天皇は、ただちに蝦夷討伐と平安京造営を中止させた。この議論は、のちに徳政相論と呼ばれ、桓武政権にとってニ大事業を中止する大きなきっかけとなった出来事である。徳政相論は桓武天皇が崩御する3ヵ月前に行われ、桓武政権は実質この政策変更で幕を閉じた。そして、806年(延暦25年)3月、桓武天皇は崩御し、柏原陵(京都市伏見区)に埋葬された。
桓武天皇による25年の治世は、約400年続く平安時代で栄華を極めた平安王朝の原点であり、時代を切り拓いた革新的な治世と言える。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
桓武天皇の母は、百済系渡来人の血統である高野新笠で、百済王の子孫とされている人物である。桓武天皇自身も「百済王等は朕が外戚なり」と発言していたと伝えられており、それまでの天皇とは異なる血統であることを、強く自覚していたことが分かる。このような血筋が、桓武天皇に新たな時代を切り拓いていく意欲を湧かせ、天皇の権威を強めながら政治を行う動機になったと考えられる。皇位継承後に、中国で天地や皇祖を祀る祭りである郊祀を行ったのも、そうした気持ちの表れだった。
当初、桓武天皇は皇族ではなく、官僚としての未来が期待されていたため、770年(宝亀元年)に大学頭(だいがくのかみ:官僚育成機関長)と侍従に任命されていた。
しかし、父である白壁王(光仁天皇)が即位したことによって、773年(宝亀4年)に皇太子となる。この際、桓武天皇の母が百済系渡来人の血筋で身分が低いことから、立太子を反対する声も上がるも、父である光仁天皇重臣の藤原百川らによって、山部親王(後の桓武天皇)が擁立されたと言われている。781年(天応元年4月3日)高齢であった光仁天皇から譲位されて即位した桓武天皇は、同母弟である早良親王を皇太子に立てた。
784年(延暦3年)桓武天皇は政情不安や疫病流行といった世の流れを変えるために、平城京(現在の奈良県奈良市)から遷都することを決意する。藤原百川の甥である藤原種継の進言から、山背国(桓武天皇が山城国と改称する:現在の京都府南部)が新都の地に選ばれ、準備を進めていた。
ところが、翌年の785年(延暦4年)遷都の指揮を執る藤原種継が暗殺される事件が起こる。臣下の中で最も信頼を寄せられ、遷都を主導していた藤原種継の死は、世の中に衝撃を与えた。事件の首謀者は、藤原氏と対立する大伴氏と佐伯氏で、奈良時代から続く藤原氏と非藤原氏の権力争いが原因だと言われている。
また、首謀者を駆り立てたのは、万葉歌人として知られる大伴家持で、皇太子御所の内政担当である春宮坊の官人達も事件に関係していたことが発覚した。藤原氏の対抗勢力の背景には、桓武天皇政権の転覆を企む者達や、次期政権を担う皇太子側近がかかわっていた。
こうして早良親王は嫌疑をかけられ、すでに亡くなっていた大伴家持の官位剥奪とともに、早良親王も皇太子を廃立されることとなった。
事件後、早良親王は乙訓寺(現在の京都府長岡京市)に幽閉され、淡路へ配流された。しかし、この刑罰に反発した早良親王は幽閉時に絶食を続けたため、淡路への移送途中で衰弱して亡くなった。そののち、新たな皇太子に桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が立てられ事態は収束へ向かった。
ところが、この直後に藤原百川の長女で桓武天皇夫人の藤原旅子が若くして急死し、母である高野新笠と、皇后藤原乙牟漏も病気で命を落とした。桓武天皇の親族に不幸が立て続けに起こり、安殿皇太子も病気がちとなったため、桓武天皇は陰陽師に原因を占わせた。すると、陰陽師から「早良親王の祟りの仕業だろう」と告げられ、桓武天皇は早良親王の怨霊に怯えるようになった。
このままでは、政治に支障をきたすと考えた桓武天皇は、新たな遷都計画を打ち出した。そして、桓武天皇は怨霊が留まる長岡京(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)から、794年(延暦13年)に平安京(現在の京都市)へ都を遷した。
遷都後も、桓武天皇は早良親王の怨霊に怯える日々を送り、早良親王の霊を祀るなど、怨霊対策に講じていた。さらに、800年(延暦19年)には早良親王に祟道天皇の諡号を贈り、早良親王の鎮魂のために諸国の国分寺で読経を行わせたと言われている。不安定な世の情勢や不幸が続くなかで、桓武天皇は必死に怨霊対策を行い、天皇としての力量のなさを人民に感じさせてはいけないと考えていた。
桓武政権の中枢である藤原種継の死や、早良親王による祟りなど、苦難の幕開けとなった桓武天皇の治世は、これらの事件は桓武政権に思いがけない効果を与えた。事件後に反藤原勢力が排除されたことで、朝政は安定を取り戻し、桓武政権はかえって基盤を固めた。
また、藤原種継のように優秀な政治家が現れなかったことで、それまでの天皇に比べて政治に積極的な桓武天皇の権威は高まり、独裁的な親政を行う土台が整えられた。こうして、桓武天皇は25年間という長い治世の中で、独自の政権を築き上げていった。
桓武天皇の治世で代表的な平安京造営は、平城京から長岡京へ遷都したことにも、桓武政権独自の改革が関係している。桓武天皇は、それまでの奈良仏教による政治を嫌い、国家仏教と政治の分断を望んでいた。そのため、奈良仏教が蔓延る平城京を脱し、新たな地で人心一新を図るために長岡京へ遷都した。
桓武天皇は、奈良仏教で権力を持った寺院を置き去りにし、鎮護国家思想の原点である東大寺(現在の奈良県奈良市)の移転でさえ禁じた。そして、僧侶が政治に介入することを阻止し、桓武天皇自身が積極的に新たな政策を執行していった。
桓武天皇は、既存の奈良仏教に圧力をかける一方、比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)を開山したことで知られる最澄を唐に送り、天台宗を学ばせた。桓武政権は、仏教と政治の分断を図りつつ、日本仏教に新たな風を吹かせていた。
桓武天皇が平安京造営と同時に注力していた政策が、蝦夷(現在の関東から東北、北海道などに住んでいた人々)平定である。父である光仁天皇の時代から本格化していた蝦夷討伐を引き継ぎ、桓武天皇は東北地方平定のために、3度にわたる蝦夷討伐を行った。
794年(延暦13年)に行われた2度目の討伐では、拠点である多賀城(宮城県多賀城市)に征夷大将軍に任命した坂上田村麻呂を派遣した。そして、801年(延暦20年)に3度目の討伐で、坂上田村麻呂が率いる官軍は500人ほどの蝦夷軍を降伏させ、胆沢城(岩手県奥州市)や志波城(岩手県盛岡市)を築いた。これにより、桓武政権は東国の国土確定を進行し、現代日本の起点とも言える日本の領土を定めた。
そののち、804年(延暦23年)には坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、4度目の蝦夷討伐準備を行った。翌年の805年(延暦24年)、討伐を前に桓武天皇は信頼を寄せる公卿の菅野真道と藤原百川の長男藤原緒嗣を呼び、徳政について論じさせた。
この議論の場で藤原緒嗣から、平安京造営と蝦夷討伐が民衆を疲弊させていると指摘を受けた。藤原緒嗣の批判を受け入れた桓武天皇は、ただちに蝦夷討伐と平安京造営を中止させた。この議論は、のちに徳政相論と呼ばれ、桓武政権にとってニ大事業を中止する大きなきっかけとなった出来事である。徳政相論は桓武天皇が崩御する3ヵ月前に行われ、桓武政権は実質この政策変更で幕を閉じた。そして、806年(延暦25年)3月、桓武天皇は崩御し、柏原陵(京都市伏見区)に埋葬された。
桓武天皇による25年の治世は、約400年続く平安時代で栄華を極めた平安王朝の原点であり、時代を切り拓いた革新的な治世と言える。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。