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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
德川将軍家と富士山
2025年05月01日
室町幕府将軍足利義教は、永享 4年(1432年)富士山を見るために下向したと言われ、初夢に見ると縁起がよいとされる「一富士二鷹三なすび」も德川家康公の好きな物を順に並べたいう山路愛山の説がある。德川家康公は起請文を書く場合は、日本中の大小神の他に富士、白山の罰を受けると書いている。その家康公が城と城下町を江戸に作ったのは、豊臣秀吉の命によるものとされるが、德川家康公自身も富士山の見える場所にこだわっていたからだとも言われている。
德川家康公は岡崎に生まれ、浜松城が出世城と呼ばれるように、富士山を見据えて東へと進出してきた。天下をとるに及び、富士山を正面に望む江戸城の地を選んだとも考えられる。足利健亮の説によれば、家康公が天正18年(1590年)関八州を与えられた際、家臣の7、8割は小田原、2、3割は鎌倉を本拠地にするだろうと考えていた。
德川家康公は縁起を気にする人物であり、江戸は勿論、最後の居所に定めた御殿場も、遺言で葬られた久能山も、富士山の見える場所である。秀吉も最期の地に不死身に通じる伏見を選んだが、富士山は不死山で、富士見は不死身に通じることから、常に死に直面する武士の当主として富士山に拘った。
江戸は、都市計画でも富士山とは切っても切れない縁があった。本町(現中央区日本橋本石町、日本橋室町、日本橋本町付近)は德川家康公が都市計画によって作った最初の町人町であり、本町通りは西南西に100.6km離れた富士山をランドマークとして計画された。とりわけ駿河町の通り(現中央区日本橋室町一丁目、三井本館と三越本店の間の通り)からは、安藤広重の「名所江戸百景駿河町」に描かれたように、真正面に富士山が仰げる。
またこの絵では雲に隠されているが、明暦の大火までは、富士山の手前に、富士山を思わせる白い江戸城天守閣もそびえていた。それゆえここが駿河町と呼ばれ、徳川家の故郷駿河の国の山で、同時に日本一の名山でもある富士山は、德川家と日本を一つに重ねるものであり、德川家康公は富士山(国土)、江戸城(統治者)、江戸の城下町(市民)を一つの軸の上に乗せ、三つが三味一体化する場所としての江戸を建設しようとした。
德川将軍から米国大統領へ遣わされた外交的贈答品として、万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換の使命を託された遣米使節が持参した狩野董川中信筆「富士飛鶴図」がある。遣米使節がサンフランシスコに到着する目前、3月3日(和暦)には開国を推進した大老井伊直弼が桜田門外の変に斃れ、のち幕府の外交政策は転換を余儀なくされる。
文久2年(1862年)すでに約されていた開港と開市の一時停止を求めるためフランス、英国、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガル6ヶ国へ第一次遣欧使節が送られる。同使節団の派遣に際し、外交的贈答品は調えられ、各国へは掛幅画が10幅ずつ遣わされた。
掛幅群のなかには富士山図も含まれる。米国へ贈られた富士山図の前例に倣い、各10幅のうち富士山図を必ず一幅ずつ含めよう幕府側の指示を踏まえたうえでのことである。「富士山之儀ハ万国一般ニ仰望仕居候名山之儀ニ付、是又亜国之振合を以各国へも一幅ツゝ御遣し相成候方可然奉存候」(『続通信全覧』)富士山は、世界が仰ぐ名山であるためというのが理由である。
東アジアに普遍的な德川将軍の権力と権威が対外的に表象され、このなかで江戸城障壁画にも描かれ德川将軍の身体と一体化する権力装置となった富士山図には、德川将軍の統治する日本を寓意する肖像的役割が期待された。
※画像:狩野董川中信筆「富士飛鶴図」
■ 佐野鼎
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の親戚。天保2年(1831年)駿河国富士郡生まれ、明治10年(1877年)10月24日コレラに罹り47歳急逝。通称は貞助(輔)。江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭。のち長崎の海軍伝習所に学び、安政元年(1854年)加賀藩に洋式兵学校壮猶館が設立されたとき西洋砲術師範方棟取役。安政7年(万延元年1860年)幕府遣米使節に随行「奉使米行航海日記」を著し、文久元年(1861年)の遣欧使節にも加わり明治4年(1871年)廃藩置県後、金沢藩の洋学・砲術・海洋学の講師から兵部省の造兵司正(頭)。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
德川家康公は岡崎に生まれ、浜松城が出世城と呼ばれるように、富士山を見据えて東へと進出してきた。天下をとるに及び、富士山を正面に望む江戸城の地を選んだとも考えられる。足利健亮の説によれば、家康公が天正18年(1590年)関八州を与えられた際、家臣の7、8割は小田原、2、3割は鎌倉を本拠地にするだろうと考えていた。
德川家康公は縁起を気にする人物であり、江戸は勿論、最後の居所に定めた御殿場も、遺言で葬られた久能山も、富士山の見える場所である。秀吉も最期の地に不死身に通じる伏見を選んだが、富士山は不死山で、富士見は不死身に通じることから、常に死に直面する武士の当主として富士山に拘った。
江戸は、都市計画でも富士山とは切っても切れない縁があった。本町(現中央区日本橋本石町、日本橋室町、日本橋本町付近)は德川家康公が都市計画によって作った最初の町人町であり、本町通りは西南西に100.6km離れた富士山をランドマークとして計画された。とりわけ駿河町の通り(現中央区日本橋室町一丁目、三井本館と三越本店の間の通り)からは、安藤広重の「名所江戸百景駿河町」に描かれたように、真正面に富士山が仰げる。
またこの絵では雲に隠されているが、明暦の大火までは、富士山の手前に、富士山を思わせる白い江戸城天守閣もそびえていた。それゆえここが駿河町と呼ばれ、徳川家の故郷駿河の国の山で、同時に日本一の名山でもある富士山は、德川家と日本を一つに重ねるものであり、德川家康公は富士山(国土)、江戸城(統治者)、江戸の城下町(市民)を一つの軸の上に乗せ、三つが三味一体化する場所としての江戸を建設しようとした。
德川将軍から米国大統領へ遣わされた外交的贈答品として、万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換の使命を託された遣米使節が持参した狩野董川中信筆「富士飛鶴図」がある。遣米使節がサンフランシスコに到着する目前、3月3日(和暦)には開国を推進した大老井伊直弼が桜田門外の変に斃れ、のち幕府の外交政策は転換を余儀なくされる。
文久2年(1862年)すでに約されていた開港と開市の一時停止を求めるためフランス、英国、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガル6ヶ国へ第一次遣欧使節が送られる。同使節団の派遣に際し、外交的贈答品は調えられ、各国へは掛幅画が10幅ずつ遣わされた。
掛幅群のなかには富士山図も含まれる。米国へ贈られた富士山図の前例に倣い、各10幅のうち富士山図を必ず一幅ずつ含めよう幕府側の指示を踏まえたうえでのことである。「富士山之儀ハ万国一般ニ仰望仕居候名山之儀ニ付、是又亜国之振合を以各国へも一幅ツゝ御遣し相成候方可然奉存候」(『続通信全覧』)富士山は、世界が仰ぐ名山であるためというのが理由である。
東アジアに普遍的な德川将軍の権力と権威が対外的に表象され、このなかで江戸城障壁画にも描かれ德川将軍の身体と一体化する権力装置となった富士山図には、德川将軍の統治する日本を寓意する肖像的役割が期待された。
※画像:狩野董川中信筆「富士飛鶴図」
■ 佐野鼎
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の親戚。天保2年(1831年)駿河国富士郡生まれ、明治10年(1877年)10月24日コレラに罹り47歳急逝。通称は貞助(輔)。江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭。のち長崎の海軍伝習所に学び、安政元年(1854年)加賀藩に洋式兵学校壮猶館が設立されたとき西洋砲術師範方棟取役。安政7年(万延元年1860年)幕府遣米使節に随行「奉使米行航海日記」を著し、文久元年(1861年)の遣欧使節にも加わり明治4年(1871年)廃藩置県後、金沢藩の洋学・砲術・海洋学の講師から兵部省の造兵司正(頭)。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。