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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
武蔵野鉄道開業110周年
2025年04月15日
西武池袋線の前身である武蔵野鉄道「池袋~飯能駅間」が、4月15日に開業100周年を迎えた。
武蔵野鉄道(現:西武池袋線)は、1911年(明治44年)2月17日 武蔵野軽便鉄道免許の創立認可申請がなされた。発起人の中には飯能町出身の平沼専蔵(横浜在住貿易商)、所沢町の向山小平次(織物買継商)等75名によって発足された。(資本金75万円)当初は、「武蔵野軽便鉄道」という名称で敷設免許の下付を受けたが、1922年(大正11年)5月の総会で「武蔵野鉄道」と社名を変更した。
初期の段階では東京府北豊島郡の国鉄山手線「巣鴨駅」を起点として、北豊島群長崎村、大泉村、久米川村、を経て、入間郡所沢町で川越鉄道(現:西武新宿線)を横断し、各町村を経て飯能町に至る約40.2キロメールの蒸気軌道が申請された。開業時の蒸気機関車は、ドイツ・ヘンシェル製Cタンクが採用された。
1915年(大正4年)武蔵野鉄道は、池袋〜飯能間の43.7kmを開通させた。この時点で開業した駅は、池袋、東長崎、練馬、石神井、保谷、東久留米、小手指(現:西所沢)、元狭山(三ヶ島村→現:狭山ヶ丘)、豊岡町(現:入間市)、仏子、飯能。駅の数は現在の半分以下しかないが、開業した年の9月1日の時刻表によると、1日8往復の全線直通運転のみで、区間列車はなかった。
所要時間は池袋から所沢までは54〜56分、飯能には96〜129分。当時、川越鉄道の所沢〜国分寺〜新宿の列車は、接続状態でかなりの差があったが、68〜106分かかったとされる。武蔵野鉄道は、開業初年度から貨物において川越鉄道を凌駕し、3年目には旅客数でも上回っていた。
開業当時、沿線には典型的な農村風景が広がっていたが、国の近代化と鉄道の利便性の波に洗われたことで、都市化が進んだ。1920年(大正9年)日本初の国勢調査では、長崎村(現:豊島区西部)の人口は約3500人だったが、5年後には約4倍に急増している。関東大震災を機に、都心から郊外への移住が進んだことも大きく、さらに5年後の1930年(昭和5年)には、人口は3万人弱にまで増えた。
その頃、郊外化したのは練馬あたりまでだったが、武蔵野鉄道には先見の明により、1922年(大正11年)には、首都圏の蒸気運転の鉄道としては初めての電化を実施(池袋〜所沢間)。電車と汽車の混合運転を開始し、1925年(大正14年)には飯能までの電化を成し遂げている。
遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の親戚である栗原秀雄 栗原家当主の先祖は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などを含む広大な土地を所有していた。そのことから、遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の曽祖父である栗原鉚三栗原家当主が石神井村村長等を歴任し、現在の練馬区の基礎を構築した。
1915年(大正4年)池袋から飯能まで武蔵野鉄道(現:西武池袋線)の開通伴い、石神井村の栗原鉚三村長等の有力地主は、石神井駅(現:石神井公園駅)駅舎敷地の五千余坪を寄付した。1920年(大正9年)鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻んだ「石神井火車站之碑」石碑が造立され、現在、石神井公園駅 南口に建立されている。
栗原鉚三村長は観光開発事業として、私有地を武蔵野鉄道等に貸し出した。借主等は、1917年(大正6年)三宝時寺池南側で旅館「武蔵野館」、東側で別館料亭「豊島館」の営業を開始した。栗原鉚三村長は、翌年の1918年(大正7年)現在「水辺観察園」がある場所に、日本初の100mプール「府立第四公衆遊泳場」や1934年(昭和9年)三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で、石神井池(通称ボート池)等を造った。
石神井公園(面積61000坪、23万㎡、東京ドーム約16個分)は、三宝寺池、石神井池があり、2つの池は井の頭池、善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られている。当地付近には、元々武蔵野を支配した豊島氏の石神井城跡や豊島氏を滅ぼした遠藤宗家の縁戚である太田道灌公にまつわる遺跡や神社がある。
※画像:第一号機関車「ドイツ・クラウス社製」
■ 栗原鉚三
旧上石神井村の名主。三宝寺檀家総代。
石神井村村長 1916年~1932年(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)
≪ 石神井村沿革 ≫
1872年(明治4年)東京府へ編入。新宿口第22区(谷原・田中)、第18区(石神井・関)に属す。1873年(明治6年)朱引外大小区改正により東京府第8大区7小区(谷原・田中)、8小区(石神井・関)にそれぞれ改称。1878年(明治11年)郡区町村編制法施行により東京府北豊島郡の所属となり、谷原村・田中村、下石神井村、上石神井村・竹下新田・関村の3つの戸長役場が定められた。1889年(明治22年)町村制施行に伴う合併(明治の大合併)上石神井村、下石神井村、谷原村、田中村(田中新田を含む)、関村の5村に加えて上土支田村を合併し東京府北豊島郡石神井村となる。(各村は大字となる)1891年(明治24年)大字上土支田を分離。石神井村大字上土支田は大泉村大字上土支田となる。1932年(昭和7年)板橋区成立。東京市が隣接5郡(豊多摩郡・北豊島郡・荏原郡・南足立郡・南葛飾郡)82町村を編入。練馬地区には練馬派出所と石神井派出所が設置。後に、練馬派出所は練馬支所、石神井派出所は石神井出張所へと昇格。石神井村は7町に分立し、石神井谷原町(旧:谷原村、現:谷原、高野台、富士見台)、石神井北田中町(旧:田中新田、現:三原台)、石神井南田中町(旧:田中村の田中新田を除く、現:南田中)、上石神井町(旧:上石神井村、現:上石神井、石神井台)、下石神井町(旧:下石神井村、現:下石神井、石神井町、上石神井南町)、石神井関町(旧:関村、竹下新田、現:関町北、関町南、関町東)、石神井立野町(旧:上石神井村立野の飛地、現:立野町)、1943年(昭和18年)東京都制が施行。旧石神井村は東京都板橋区に属す。1947年(昭和22年)練馬区独立。
石神井郵便局局長 1922年(大正11年)
≪ 石神井郵便局沿革 ≫
1922年(大正11年)請願による3等郵便局として開局。(下石神井1315番地・現在の石神井町3丁目20番)1924年(大正13年)集配業務を開始。1927年(昭和2年)電話通話事務を開始。1927年(昭和2年)電信事務を開始。1927年(昭和2年)電話交換業務を開始。1937年(昭和12年)2等局に昇格。等級制は昭和16年勅令第95号(1941年2月1日施行)により廃止。1947年(昭和22年)下石神井2丁目1217番地(現・石神井町6丁目1番)に電話分室を設置。1949年(昭和24年)郵政省・電気通信省発足により電信電話事務を分離。1951年(昭和26年)下石神井2丁目1301番地(現・石神井公園駅前郵便局)に移転。1956年(昭和31年)電話通話事務の取扱を開始。1957年(昭和32年)和文電報受付事務の取扱を開始。1960年(昭和35年)下石神井2丁目1365番地(現・石神井町2丁目8番)に分室を設置(郵便業務)。1964年(昭和39年)現在地に新築移転。1999年(平成11年)外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。2007年(平成19年)民営化に伴い、併設された郵便事業石神井支店に一部業務を移管。2012年(平成24年)日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便事業石神井支店を石神井郵便局に統合。2016年(平成28年)ゆうゆう窓口の24時間営業を廃止。
武蔵野鉄道(現:西武池袋線)は、1911年(明治44年)2月17日 武蔵野軽便鉄道免許の創立認可申請がなされた。発起人の中には飯能町出身の平沼専蔵(横浜在住貿易商)、所沢町の向山小平次(織物買継商)等75名によって発足された。(資本金75万円)当初は、「武蔵野軽便鉄道」という名称で敷設免許の下付を受けたが、1922年(大正11年)5月の総会で「武蔵野鉄道」と社名を変更した。
初期の段階では東京府北豊島郡の国鉄山手線「巣鴨駅」を起点として、北豊島群長崎村、大泉村、久米川村、を経て、入間郡所沢町で川越鉄道(現:西武新宿線)を横断し、各町村を経て飯能町に至る約40.2キロメールの蒸気軌道が申請された。開業時の蒸気機関車は、ドイツ・ヘンシェル製Cタンクが採用された。
1915年(大正4年)武蔵野鉄道は、池袋〜飯能間の43.7kmを開通させた。この時点で開業した駅は、池袋、東長崎、練馬、石神井、保谷、東久留米、小手指(現:西所沢)、元狭山(三ヶ島村→現:狭山ヶ丘)、豊岡町(現:入間市)、仏子、飯能。駅の数は現在の半分以下しかないが、開業した年の9月1日の時刻表によると、1日8往復の全線直通運転のみで、区間列車はなかった。
所要時間は池袋から所沢までは54〜56分、飯能には96〜129分。当時、川越鉄道の所沢〜国分寺〜新宿の列車は、接続状態でかなりの差があったが、68〜106分かかったとされる。武蔵野鉄道は、開業初年度から貨物において川越鉄道を凌駕し、3年目には旅客数でも上回っていた。
開業当時、沿線には典型的な農村風景が広がっていたが、国の近代化と鉄道の利便性の波に洗われたことで、都市化が進んだ。1920年(大正9年)日本初の国勢調査では、長崎村(現:豊島区西部)の人口は約3500人だったが、5年後には約4倍に急増している。関東大震災を機に、都心から郊外への移住が進んだことも大きく、さらに5年後の1930年(昭和5年)には、人口は3万人弱にまで増えた。
その頃、郊外化したのは練馬あたりまでだったが、武蔵野鉄道には先見の明により、1922年(大正11年)には、首都圏の蒸気運転の鉄道としては初めての電化を実施(池袋〜所沢間)。電車と汽車の混合運転を開始し、1925年(大正14年)には飯能までの電化を成し遂げている。
遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の親戚である栗原秀雄 栗原家当主の先祖は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などを含む広大な土地を所有していた。そのことから、遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の曽祖父である栗原鉚三栗原家当主が石神井村村長等を歴任し、現在の練馬区の基礎を構築した。
1915年(大正4年)池袋から飯能まで武蔵野鉄道(現:西武池袋線)の開通伴い、石神井村の栗原鉚三村長等の有力地主は、石神井駅(現:石神井公園駅)駅舎敷地の五千余坪を寄付した。1920年(大正9年)鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻んだ「石神井火車站之碑」石碑が造立され、現在、石神井公園駅 南口に建立されている。
栗原鉚三村長は観光開発事業として、私有地を武蔵野鉄道等に貸し出した。借主等は、1917年(大正6年)三宝時寺池南側で旅館「武蔵野館」、東側で別館料亭「豊島館」の営業を開始した。栗原鉚三村長は、翌年の1918年(大正7年)現在「水辺観察園」がある場所に、日本初の100mプール「府立第四公衆遊泳場」や1934年(昭和9年)三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で、石神井池(通称ボート池)等を造った。
石神井公園(面積61000坪、23万㎡、東京ドーム約16個分)は、三宝寺池、石神井池があり、2つの池は井の頭池、善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られている。当地付近には、元々武蔵野を支配した豊島氏の石神井城跡や豊島氏を滅ぼした遠藤宗家の縁戚である太田道灌公にまつわる遺跡や神社がある。
※画像:第一号機関車「ドイツ・クラウス社製」
■ 栗原鉚三
旧上石神井村の名主。三宝寺檀家総代。
石神井村村長 1916年~1932年(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)
≪ 石神井村沿革 ≫
1872年(明治4年)東京府へ編入。新宿口第22区(谷原・田中)、第18区(石神井・関)に属す。1873年(明治6年)朱引外大小区改正により東京府第8大区7小区(谷原・田中)、8小区(石神井・関)にそれぞれ改称。1878年(明治11年)郡区町村編制法施行により東京府北豊島郡の所属となり、谷原村・田中村、下石神井村、上石神井村・竹下新田・関村の3つの戸長役場が定められた。1889年(明治22年)町村制施行に伴う合併(明治の大合併)上石神井村、下石神井村、谷原村、田中村(田中新田を含む)、関村の5村に加えて上土支田村を合併し東京府北豊島郡石神井村となる。(各村は大字となる)1891年(明治24年)大字上土支田を分離。石神井村大字上土支田は大泉村大字上土支田となる。1932年(昭和7年)板橋区成立。東京市が隣接5郡(豊多摩郡・北豊島郡・荏原郡・南足立郡・南葛飾郡)82町村を編入。練馬地区には練馬派出所と石神井派出所が設置。後に、練馬派出所は練馬支所、石神井派出所は石神井出張所へと昇格。石神井村は7町に分立し、石神井谷原町(旧:谷原村、現:谷原、高野台、富士見台)、石神井北田中町(旧:田中新田、現:三原台)、石神井南田中町(旧:田中村の田中新田を除く、現:南田中)、上石神井町(旧:上石神井村、現:上石神井、石神井台)、下石神井町(旧:下石神井村、現:下石神井、石神井町、上石神井南町)、石神井関町(旧:関村、竹下新田、現:関町北、関町南、関町東)、石神井立野町(旧:上石神井村立野の飛地、現:立野町)、1943年(昭和18年)東京都制が施行。旧石神井村は東京都板橋区に属す。1947年(昭和22年)練馬区独立。
石神井郵便局局長 1922年(大正11年)
≪ 石神井郵便局沿革 ≫
1922年(大正11年)請願による3等郵便局として開局。(下石神井1315番地・現在の石神井町3丁目20番)1924年(大正13年)集配業務を開始。1927年(昭和2年)電話通話事務を開始。1927年(昭和2年)電信事務を開始。1927年(昭和2年)電話交換業務を開始。1937年(昭和12年)2等局に昇格。等級制は昭和16年勅令第95号(1941年2月1日施行)により廃止。1947年(昭和22年)下石神井2丁目1217番地(現・石神井町6丁目1番)に電話分室を設置。1949年(昭和24年)郵政省・電気通信省発足により電信電話事務を分離。1951年(昭和26年)下石神井2丁目1301番地(現・石神井公園駅前郵便局)に移転。1956年(昭和31年)電話通話事務の取扱を開始。1957年(昭和32年)和文電報受付事務の取扱を開始。1960年(昭和35年)下石神井2丁目1365番地(現・石神井町2丁目8番)に分室を設置(郵便業務)。1964年(昭和39年)現在地に新築移転。1999年(平成11年)外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。2007年(平成19年)民営化に伴い、併設された郵便事業石神井支店に一部業務を移管。2012年(平成24年)日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便事業石神井支店を石神井郵便局に統合。2016年(平成28年)ゆうゆう窓口の24時間営業を廃止。