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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
陸奥白川藩阿部家上屋敷
2025年06月20日
帝国ホテル横(日生劇場側)に絵図板があり、この付近の江戸時代屋敷図と現在の建物とを重ね合わせた地図が記載されている。この場所は、德川将軍家の居城で中央政庁であった江戸城の一部にあたる。約四百年前まで、この帝国ホテルの玄関の辺りは日比谷入江と呼ばれる海岸線であった。日比谷入江の南北の範囲は現在のJR浜松町駅あたりから日比谷公園、皇居外苑、そして大手町まで続き、一方、東西は帝国ホテルの前の日比谷公園を隔てて、外務省などが立ち並ぶ桜田通りの西側までの区域だった。
17世紀の初め、德川幕府は江戸城(現在の皇居)を大規模に拡張するため入江の埋め立て、そこに屋敷を建てて住むことを全国の大名に命じた。埋め立てられた入江のうち、愛宕下一今の港区内一から丸の内までの範囲は、多くの大名屋敷が集中していたため、明治維新までの約260年間にわたって大名小路と呼ばれていた。
屋敷内には、大名の住む御殿、藩士の住む長屋や役所、厩、学問所、武道場等があった。大藩では、5千人程度、小藩でも5百人程度の藩士が居住していた。帝国ホテルの一角は、江戸時代の初め德川家康公の孫の松平忠直公の屋敷だったが、1848年(嘉永3年)陸奥白河藩(福島県白河市)10万石の藩主阿部播磨守正耆第6代藩主の屋敷となった。この阿部家からは、阿部正外が江戸時代後期に老中を勤めていた。その屋敷の北東には、江戸城の城門の一つの山下御門があった。忠直公以来、幕府に親しい大名がここに配置されたことは、この城門の重要性を意味している。
帝国ホテルの南隣の島津家を初め、日比谷公園の半分以上は、毛利、鍋島、南部家といった、かつては德川家に対抗し、その後、服従した大名達の屋敷であった。また、外桜田御門から虎御門までの桜田通りには有力大名である上杉、浅野、黒田家の屋敷が並んでいた。これらの外様大名の屋敷の間には、大名の動向を監視する目的で德川家直参家臣であった譜代大名の屋敷が配置されていた。日比谷公園の南西に面した家庭裁判所の一角は、名奉行として名高い大岡越前守の屋敷があった。
1871年(明治4年)に大名制度が廃止されると阿部家、島津家の一帯は山下御門の内側ということから内山下町という町名がつけられた。1873年(明治6年)島津家中屋敷の一部に11棟の建物や庭園からなる1万4000坪余の博物館が設けられた。残る島津家中屋敷の地に国際的社交施設として鹿鳴館が建設された。元長州藩士で外務卿の井上馨が条約改正交渉を進めるため、日本社会の欧化・文明化のシンボルとして構想したものである。当初は外国人接待所と呼ばれたが、元薩摩藩士の外交官中井弘が中国最古の詩篇である詩経の鹿鳴詩から、群臣や賓客をもてなす宴会や音楽の意を取り命名した。
1886年(明治19年) 井上馨は阿部家上屋敷跡に国賓の宿泊施設を建設することを構想し、元幕臣の渋沢栄一らと相談の後、有限責任帝国ホテルを設立した。帝国ホテルと日生劇場との間にある御幸通りの由来は、明治天皇が仮皇居(現在の赤坂迎賓館)から、延遼館・浜離宮庭園に行かれる道筋だったためである。この御幸通り沿いに、帝国ホテルや鹿鳴館が誕生したのは、日本の近代化を世界に知らせしめるためでもあった。赤坂での仮皇居時代は、1873年(明治6年)から15年間続いた。
遠藤潔 第十八代遠藤宗家は、ホテルやレストランでサービスを統括するメートルドテルの組織化、技術のレベルアップを図る日本メートルドテル協会に所属。帝国ホテル、ザ・クレストホテル(帝国ホテルグループ)、三井不動産ホテルマネジメント(三井不動産グループ)等に従事した。
その由緒により、2012年(平成24年)3月1日 株式会社遠藤総合研究所(本社:東京都千代田区大手町、代表取締役社長:遠藤潔、以下「遠藤総研」)は、帝国ホテルタワーを迎賓館として新設した。2015年4月1日 宮下修元株式会社帝国ホテル取締役・元株式会社帝国ホテルハイヤー社長が、遠藤総研商業顧問に就任。2022年度~2031年度にかけて順次着工する国内最大レベルの大規模再開発に伴い、2022年(令和4年)8月1日より帝国ホテル本館へ移転した。帝国ホテルのHP、館内の案内板にも記載されてない最高級会員制「ゴールデンライオン」は、1971年(昭和46年)の開設以来、各界VIPのプライベートスペースとして、世界の美味と銘酒を優雅なピアノの調べに包まれるサービスにより、極上のおもてなしを提供している。
※画像:阿部播磨守:帝国ホテル・薩摩宰相殿:鹿鳴館
■ 陸奥白川藩阿部家上屋敷跡
上屋敷坪数:7.836坪。白河の地は白河の関という関所が設けられ、奥羽地方の出入口として 要衝の地であった。白河藩の締める地位は奥羽地方の外様大名の抑えでもあり、 初代の丹羽氏を除き、有力な親藩・譜代大名が煩雑に入れ替わった。 1627年(寛永4年)棚倉藩より丹羽長重が10万石で入封し、白河藩が立藩。 長重は、白河城とその城下町を建設した。光重第2代藩主は、二本松藩に転封。 上野国館林藩松平(榊原)忠次が14万石で入封。その後、本多家、松平家(奥平)、松平家(越前)、松平家(久松)、最後は阿部家が武蔵国忍藩より10万石で入封し、正静第8代藩主は棚倉藩に転封。白河藩領は二本松藩のお預かり地ちとなった。戊辰戦争時は、藩主不在。明治元年廃藩。
17世紀の初め、德川幕府は江戸城(現在の皇居)を大規模に拡張するため入江の埋め立て、そこに屋敷を建てて住むことを全国の大名に命じた。埋め立てられた入江のうち、愛宕下一今の港区内一から丸の内までの範囲は、多くの大名屋敷が集中していたため、明治維新までの約260年間にわたって大名小路と呼ばれていた。
屋敷内には、大名の住む御殿、藩士の住む長屋や役所、厩、学問所、武道場等があった。大藩では、5千人程度、小藩でも5百人程度の藩士が居住していた。帝国ホテルの一角は、江戸時代の初め德川家康公の孫の松平忠直公の屋敷だったが、1848年(嘉永3年)陸奥白河藩(福島県白河市)10万石の藩主阿部播磨守正耆第6代藩主の屋敷となった。この阿部家からは、阿部正外が江戸時代後期に老中を勤めていた。その屋敷の北東には、江戸城の城門の一つの山下御門があった。忠直公以来、幕府に親しい大名がここに配置されたことは、この城門の重要性を意味している。
帝国ホテルの南隣の島津家を初め、日比谷公園の半分以上は、毛利、鍋島、南部家といった、かつては德川家に対抗し、その後、服従した大名達の屋敷であった。また、外桜田御門から虎御門までの桜田通りには有力大名である上杉、浅野、黒田家の屋敷が並んでいた。これらの外様大名の屋敷の間には、大名の動向を監視する目的で德川家直参家臣であった譜代大名の屋敷が配置されていた。日比谷公園の南西に面した家庭裁判所の一角は、名奉行として名高い大岡越前守の屋敷があった。
1871年(明治4年)に大名制度が廃止されると阿部家、島津家の一帯は山下御門の内側ということから内山下町という町名がつけられた。1873年(明治6年)島津家中屋敷の一部に11棟の建物や庭園からなる1万4000坪余の博物館が設けられた。残る島津家中屋敷の地に国際的社交施設として鹿鳴館が建設された。元長州藩士で外務卿の井上馨が条約改正交渉を進めるため、日本社会の欧化・文明化のシンボルとして構想したものである。当初は外国人接待所と呼ばれたが、元薩摩藩士の外交官中井弘が中国最古の詩篇である詩経の鹿鳴詩から、群臣や賓客をもてなす宴会や音楽の意を取り命名した。
1886年(明治19年) 井上馨は阿部家上屋敷跡に国賓の宿泊施設を建設することを構想し、元幕臣の渋沢栄一らと相談の後、有限責任帝国ホテルを設立した。帝国ホテルと日生劇場との間にある御幸通りの由来は、明治天皇が仮皇居(現在の赤坂迎賓館)から、延遼館・浜離宮庭園に行かれる道筋だったためである。この御幸通り沿いに、帝国ホテルや鹿鳴館が誕生したのは、日本の近代化を世界に知らせしめるためでもあった。赤坂での仮皇居時代は、1873年(明治6年)から15年間続いた。
遠藤潔 第十八代遠藤宗家は、ホテルやレストランでサービスを統括するメートルドテルの組織化、技術のレベルアップを図る日本メートルドテル協会に所属。帝国ホテル、ザ・クレストホテル(帝国ホテルグループ)、三井不動産ホテルマネジメント(三井不動産グループ)等に従事した。
その由緒により、2012年(平成24年)3月1日 株式会社遠藤総合研究所(本社:東京都千代田区大手町、代表取締役社長:遠藤潔、以下「遠藤総研」)は、帝国ホテルタワーを迎賓館として新設した。2015年4月1日 宮下修元株式会社帝国ホテル取締役・元株式会社帝国ホテルハイヤー社長が、遠藤総研商業顧問に就任。2022年度~2031年度にかけて順次着工する国内最大レベルの大規模再開発に伴い、2022年(令和4年)8月1日より帝国ホテル本館へ移転した。帝国ホテルのHP、館内の案内板にも記載されてない最高級会員制「ゴールデンライオン」は、1971年(昭和46年)の開設以来、各界VIPのプライベートスペースとして、世界の美味と銘酒を優雅なピアノの調べに包まれるサービスにより、極上のおもてなしを提供している。
※画像:阿部播磨守:帝国ホテル・薩摩宰相殿:鹿鳴館
■ 陸奥白川藩阿部家上屋敷跡
上屋敷坪数:7.836坪。白河の地は白河の関という関所が設けられ、奥羽地方の出入口として 要衝の地であった。白河藩の締める地位は奥羽地方の外様大名の抑えでもあり、 初代の丹羽氏を除き、有力な親藩・譜代大名が煩雑に入れ替わった。 1627年(寛永4年)棚倉藩より丹羽長重が10万石で入封し、白河藩が立藩。 長重は、白河城とその城下町を建設した。光重第2代藩主は、二本松藩に転封。 上野国館林藩松平(榊原)忠次が14万石で入封。その後、本多家、松平家(奥平)、松平家(越前)、松平家(久松)、最後は阿部家が武蔵国忍藩より10万石で入封し、正静第8代藩主は棚倉藩に転封。白河藩領は二本松藩のお預かり地ちとなった。戊辰戦争時は、藩主不在。明治元年廃藩。