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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
日光神橋勤番絵図
2026年02月02日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
德川将軍の日光社参が実施されるときには、警固の目的や知的関心に応じて日光山や日光道中に関する各種の絵図が作成された。そのため各種の日光山の絵図が、大名・旗本の家伝文書中に数多く見られる。
『日光神橋勤番絵図』では、警固の立ち位置を組頭は■(朱)、与力は●(朱)、同心組頭は▲(黒)、同心は●(黒)で示した。神橋御番所の前が組頭の御目見場所であり、そこには弓、鑓、赤い袋入りの鉄炮などの武具、捕り物用の三つ道具がすえられ、また○(朱)は三つ葉葵の紋付き提灯、△(朱)は組頭の家紋付きの高張提灯、○(黒)は木行灯が置かれた。これらはただ置かれたのではなく、百人組が警固する象徴として飾られていた。
日光御参詣警固絵図の内では、1844年(天保十四年)4月13日に江戸を出立した将軍德川家慶公は16日に日光山へ到着し、以後18日まで本坊に滞在した。その日光山の入口である神橋付近の警固絵図。番所は細やかな指示のもと、常置される1か所に加え、計7か所が用意されていた。
德川将軍が通行する町場では、その住人が白砂をまき、箒や手桶けを飾ることが命じられた。それらは、徳川将軍家の威光を示すためであった。百人組の事例では、武具・捕り物道具がこれに相当した。供奉者それぞれが御目見の場では、その役職や立場にふさわしい道具をもって、自らを象徴的に飾り立てたのである。
見物人は、これらの視覚的な象徴を通じ、百人組をはじめ数多の供奉者を率いる德川幕府の威厳を感じることができた。
現在、日光東照宮例大祭には、装束を召された德川家広 徳川宗家19代当主や徳川一門の柳営会当主など、当宮ご関係の招待者約300名が参列する。昇殿後、天皇陛下より御下賜の幣帛両の奉献や宮司による祝詞奏上など、厳粛な祭儀が執り行われている。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家が所属する柳営会とは、徳川将軍家譜代の大名、旗本並びに御家人(大概順「御目見得以下」記載の者など徳川幕府から禄をいただいていた者)等の幕臣の子孫を原則として会員資格者とする。なお明治以降分家した子孫も含めるものとする。柳営とは、名将軍の陣営を呼称する中国の故事に由来し、江戸時代には「幕府及び将軍」を意味する固有名詞として知られていることから、会の名称として採用された。
※画像:日光神橋勤番絵図 (天保十四夘年四月着御還御之節日光山神橋七ヶ所御番所百人組土岐下野守頭組勤番繪圖)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
德川将軍の日光社参が実施されるときには、警固の目的や知的関心に応じて日光山や日光道中に関する各種の絵図が作成された。そのため各種の日光山の絵図が、大名・旗本の家伝文書中に数多く見られる。
『日光神橋勤番絵図』では、警固の立ち位置を組頭は■(朱)、与力は●(朱)、同心組頭は▲(黒)、同心は●(黒)で示した。神橋御番所の前が組頭の御目見場所であり、そこには弓、鑓、赤い袋入りの鉄炮などの武具、捕り物用の三つ道具がすえられ、また○(朱)は三つ葉葵の紋付き提灯、△(朱)は組頭の家紋付きの高張提灯、○(黒)は木行灯が置かれた。これらはただ置かれたのではなく、百人組が警固する象徴として飾られていた。
日光御参詣警固絵図の内では、1844年(天保十四年)4月13日に江戸を出立した将軍德川家慶公は16日に日光山へ到着し、以後18日まで本坊に滞在した。その日光山の入口である神橋付近の警固絵図。番所は細やかな指示のもと、常置される1か所に加え、計7か所が用意されていた。
德川将軍が通行する町場では、その住人が白砂をまき、箒や手桶けを飾ることが命じられた。それらは、徳川将軍家の威光を示すためであった。百人組の事例では、武具・捕り物道具がこれに相当した。供奉者それぞれが御目見の場では、その役職や立場にふさわしい道具をもって、自らを象徴的に飾り立てたのである。
見物人は、これらの視覚的な象徴を通じ、百人組をはじめ数多の供奉者を率いる德川幕府の威厳を感じることができた。
現在、日光東照宮例大祭には、装束を召された德川家広 徳川宗家19代当主や徳川一門の柳営会当主など、当宮ご関係の招待者約300名が参列する。昇殿後、天皇陛下より御下賜の幣帛両の奉献や宮司による祝詞奏上など、厳粛な祭儀が執り行われている。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家が所属する柳営会とは、徳川将軍家譜代の大名、旗本並びに御家人(大概順「御目見得以下」記載の者など徳川幕府から禄をいただいていた者)等の幕臣の子孫を原則として会員資格者とする。なお明治以降分家した子孫も含めるものとする。柳営とは、名将軍の陣営を呼称する中国の故事に由来し、江戸時代には「幕府及び将軍」を意味する固有名詞として知られていることから、会の名称として採用された。
※画像:日光神橋勤番絵図 (天保十四夘年四月着御還御之節日光山神橋七ヶ所御番所百人組土岐下野守頭組勤番繪圖)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。