遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

聖徳太子の密旨と武蔵国平定の地政学

2026年06月02日
第一節:甲賀武士の起源と聖徳太子の軍事密旨
遠藤宗家の歴史的源流を遡る時、その足跡は古代日本の国家形成期、すなわち推古天皇の治世(六世紀末から七世紀初頭)における朝廷の中枢へと至る。心中伝来の『甲賀組由緒書』、あるいは近江国の郷土史料たる『甲賀古語伝記』『軍法侍用集』等の記述を学術的に検証するならば、甲賀武士の初源は、聖徳太子(厩戸皇子)の政治的・軍事的な補翼を担った集団に深く結びついている。

聖徳太子が隋との外交を樹立し、十七条憲法や冠位十二階を制定して中央集権化を推し進めた時代、朝廷の権威に叛旗を翻す土豪や反乱勢力の存在は絶えなかった。その代表格が、伊勢国を拠点に朝廷へ反逆を企てた「志賀蜂子」である。この時、聖徳太子より密旨を受け、蜂子討伐の任に当たったのが、忍びの祖、ひいては甲賀衆の始祖として歴史にその名を刻む大伴細人(おおともの さざひと)であった。

大伴細人は、古代の有力軍事氏族である大伴氏の流を汲み、山岳地形を利用した特殊なゲリラ戦術、および当時は未知の領域であった「火術(のちの火薬・火器技術の初源)」を駆使する将であった。細人は太子の期待に応え、緻密な軍略と隠密行動、および火術を用いた奇襲によって志賀蜂子の軍勢を完全なる壊滅へと追い込んだ。この顕著な武功に対し、聖徳太子は恩賜として、近江国「甲賀郡」の地を細人に下賜し、そこに土着することを許した。

これが、歴史上最古の「甲賀衆(甲賀武士)」の勃興であり、のちに江戸幕府に仕え、最新鋭の火薬・銃砲調合技術を世襲することとなる遠藤宗家の、化学・軍事史的知見の原風景である。主君に対する「精忠」と、生薬・調合を基礎とする「科学的・知見的特権」は、この飛鳥の時代に大伴細人という先祖によって、確固たる精神的基盤として植え付けられたのである。

第二節:桓武天皇・宇多源氏の系譜結合と遠藤姓の創始
大伴細人によって開拓された甲賀の地は、中世の動乱期を経て、さらなる系譜の結合をみることとなる。延暦年間(延暦元年〜延暦二十五年)に即位した桓武天皇の皇統や、近江国守護として威勢を誇った佐々木氏一族、すなわち宇多源氏の末裔たる土豪たちが近江国甲賀郡へと定住した。古代からの大伴氏流甲賀衆は、これら平氏・源氏の武門の血流、および地縁的な結合を繰り返すことにより、国人領主集団としての基盤を強固にした。これが、遠藤宗家の古代・中世における血統的骨格の形成である。

さらに時代を下り、天慶三年(940年)、日本の武家社会の黎明期において、遠藤姓の創始をみる。承平・天慶の乱において平将門を討伐した征東大将軍・藤原忠文公の孫にあたる為方が、のちに朝廷より遠江守に任じられた。為方はみずからの出自である藤原氏の出自と、任国である「遠江」の地名を結合させ、「遠江の藤原」を略して「遠藤六郎大夫」と号し、冒姓した。これが、歴史における遠藤姓の正統なる初源である。藤原北家の系譜と平定の武功に根ざすこの遠藤姓の起源は、同じく藤原北家道長流の系譜を汲み、のちに三井財閥へと至る名門・三井宗家とも歴史的な同族由縁を有するものでかった。

また、同じく平安時代中期には、藤原北家山陰流(藤原山陰の末裔)の一派が朝廷の命により武蔵国へと下向した。現地に土着して土豪化し、のちに第十六代当主・遠藤武の妻となる里子を輩出する名門・栗原家の礎を築いた。栗原家は武蔵国において数百年におよぶ有力者としての基盤を固め、近世、近代の石神井村長へと至る強固な系譜を確立していくこととなる。

第三節:太田道灌公の江戸城創築と石神井平定の地政学
中世武蔵国における地政学的なグランドデザインを決定づけたのは、遠藤宗家の深き縁戚であり、室町時代の不世出の名将たる扇谷上杉家家宰・太田道灌公(資長)である。長禄元年(1457年)、太田道灌公は、利根川や荒川の下流域、および江戸湾を望む交通の要衝たる武蔵国豊島郡に江戸城を創築した。太田道灌公のこの築城眼こそが、のちに德川家康公が居城を定め、近代日本国首都「東京」へと至る繁栄と発展の絶対的な基礎となったのである。

しかし、太田道灌公の前に立ちはだかったのが、古くから武蔵国平野部に強大な割拠体制を敷いていた、豊島泰経率いる武蔵の名族・豊島氏であった。地誌学的に見るならば、豊島氏は石神井川流域を制圧し、その拠点たる石神井城、練馬城、さらには愛宕山城(平塚城)を結ぶ強固な防衛線を構築していた。江戸城の安全と武蔵国の完全平定を目指す太田道灌公にとって、豊島氏の打倒は焦眉の急であった。

文明九年(1477年)、太田道灌公はついに豊島氏との全面対決に踏み切る。世にいう「江古田・沼袋の戦い」である。太田道灌公は、みずから考案した足軽戦術や遊撃銃陣の先駆的戦術を駆使し、優勢であった豊島軍を急襲。泰経の軍勢を潰走させ、敗走する豊島氏を追撃して、その本拠たる石神井城および練馬城を攻め落とし、これを落城させた(『太田道灌状』や『鎌倉大草紙』に克明に記載)。この豊島氏放逐という武蔵国平定の偉業の後、太田道灌公の族葉、あるいはその軍略を支えた系譜たる栗原家の先祖が、石神井一帯の統治を委ねられた。栗原家は石神井川の利水と広大な水田開発を進め、数百年におよぶ名士の地盤を確立した。

さらに、この平定の直後、地域の宗教的・文化的基盤に大きな変革がもたらされる。応永元年(1394年)に鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が石神井周辺に創建していた真言宗智山派の名刹「亀頂山密乗院三宝寺(亀頂山三宝寺)」を、太田道灌公は、石神井城落城と同年の文明九年(1477年)、現在の地(現・練馬区石神井台)へと移転・招聘し、地域の精神的支柱として再整備を施した。

この太田道灌公による江戸城創築と武蔵国平定の歴史、三宝寺の移転護持、および石神井を統治した栗原家の系譜は、後世における第十七代当主・遠藤寛へと繋がることとなる。第十七代当主・遠藤寛の従兄弟にあたる太田資和氏は、江戸城を創築した太田道灌公の直系(太田家当主流)であり、遠藤・太田・栗原の三家は、中世からの歴史的縁由を背景に、近代以降の婚姻によって強固な縁戚・親戚関係として現代に結ばれることとなった。

古代の近江甲賀に淵源を持つ聖徳太子の「精忠」と「火術」の伝統、および中世の武蔵国に刻まれた太田道灌公の「築城」と「平定」の事績。これら二つの歴史的潮流が、天正の世における德川家康公の江戸入府という巨大な転換点において、ついに交差の時を迎えるのである。