遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

德川将軍家直参旗本と「京都知恩院末」高徳寺の創設

2026年06月02日
第一節:神君伊賀越えにおける臣節と関東移封にみる主従関係の変遷
天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変という激動の政変により、織田信長公が倒れた。この時、德川家康公は少数の供回りを連れて和泉国堺に滞在しており、四方を敵に囲まれるという難局に立たされた。この歴史的危機において、德川家康公が三河国への脱出を決行した「神君伊賀越え」の成否こそが、のちの德川幕府開府、ひいては近世日本のグランドデザインを決定づける分水嶺となった。

この道中において、決死の先導と隠密警護の任に当たり、德川家康公の生還を支えたのが、近江国甲賀郡の地で独自の軍略を培ってきた甲賀武士たちであった(『德川実紀』等に記載)。遠藤宗家の先祖たる甲賀衆は、険峻な山岳地帯における独自の機動力と治安情報を駆使し、主君を無事に三河国へと送り届けたのである。この危機において捧げられた無二の臣節は、德川家康公と甲賀武士との間に、直参旗本としての強固な紐帯を定礎することとなった。

天正十八年(1590年)、小田原北条氏の滅亡にともない、德川家康公の関東移封(江戸入府)が決定される。德川家康公は、みずからの居城たる江戸城の西郭、すなわち半蔵門外の大山街道(現・青山通り・国道246号)から渋谷・目黒へと至る西門外の防衛線および兵站の要衝を守護する信頼の厚い部隊として、甲賀百人組を江戸へと招聘した。始祖・遠藤左太夫をはじめとする甲賀百人武士(与力・同心)は、近江国の故郷を離れ、江戸へと移住。ここに、武蔵国平野部の西端における軍事・地政学的な防衛拠点が創設されることとなった。

第二節:赤坂青山北町への「高徳寺」建立と遠藤宗家開基の由緒
甲賀衆の江戸移入に際し、德川家康公が最も重視したのは、彼らの精神的・信仰的支柱の確保と、戦没した一族の慰霊であった。天正七年(1579年)、德川家康公の命により、甲賀組が本国近江国甲賀郡において深く信仰の対象としていた浄土宗寺院が、江戸の赤坂青山北町(現・港区北青山)の拝領地へと移転・建立された。これが、遠藤宗家の菩提寺たる寂照山唯心院高徳寺(山号および別号:寂光山唯心院)の江戸における創始である(『高徳寺縁起古文書』に記載)。

この建立に際し、甲賀百人組の中枢を担う直参旗本・遠藤宗家が「開基家」として寺門の基盤を定礎した。近世から近代にいたるまで、第十五代当主・遠藤榮らが代々「檀家総代」を世襲し、一族の信仰の要として高徳寺を厳格に護持・発展させていくこととなる。

地誌学的に見るならば、高徳寺が配置された青山赤坂の一帯は、大山街道を監視し、江戸城西郭への敵軍の侵入を阻止するための軍事的な防衛線および出城としての役割を内包していた。開基家たる遠藤宗家は、高徳寺の護持を通じて信仰の維持を図ると同時に、幕府の最前線守備兵力としての機能をも保持したのである。

開府以降、高徳寺の境内は三千余坪に及ぶ規模へと拡大した。本堂の瓦葺屋棟には金色の「德川将軍家葵紋」を付することが公式に許され、本尊には行基菩薩作と伝わる阿弥陀如来、左右に観音・勢至菩薩が安置された。さらに、德川幕府の全面的な財政的援助により、山之手六阿弥陀第三番札所、満願稲荷社、寿延観音堂、子安観音堂、宝永元年の銘を刻む鐘楼(梵鐘)などが次々と造営・整備された。

嘉永二年(1849年)11月、幕府の宗教統制機関である「德川幕府寺社奉行」に録上された公的文書の中には、「浄土宗京都知恩院末 寂光山唯心院高徳寺」と明記されており、甲賀組が幕府から給わった年貢地(原宿村内)が寺の年貢地(経済的基盤)として充当されていた実態が克明に記述されている。

このように、高徳寺は単なる一地方寺院ではなく、幕府の組織的・宗教的政策と密接に連動した、国家的な護持対象であった。そして、その境内に建立された「遠藤宗家累代之墓」の墓石は、近世江戸から近代の戦火、および現代に至るまで、直参旗本としての正統なる血統と一族の歴史的実在を北青山の地で今に伝えている。

第三節:浄土宗総本山「知恩院」の造替と幕府宗教政策との連動
遠藤宗家および高徳寺が有する信仰的品格を学術的に検証するならば、その本山たる浄土宗総本山「知恩院」(正式名称:華頂山知恩教院大谷寺・京都)と、德川将軍家との間に構築された強固な宗教政策的関係に留意する必要がある。

知恩院は、承安五年(1175年)に浄土宗の開祖・法然上人が吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、上人がお念仏の教えを広め、入寂された遺跡に建つ聖地である。元来、厚い浄土宗の信仰を有していた德川家康公は、慶長十三年(1608年)より、知恩院を「京都における德川将軍家の菩提所」と定め、国家的な大造替(寺地の拡大および諸堂の造営)を敢行した。

この大規模な造営は第二代将軍・德川秀忠公へと引き継がれ、元和七年(1621年)には現存する日本最大級の木造二重門である「三門」(現・国宝)が建立された。寛永十年(1633年)の火災により諸堂の多くが焼失した際も、第三代将軍・德川家光公の命により直ちに天下普請による再建が進められ、寛永十八年(1641年)までに現在の壮麗な大伽藍が完成をみている。

高徳寺がこの総本山知恩院の「直系末寺(京都知恩院末)」として遇されたという事実は、開基家たる遠藤宗家が、幕府の宗教政策の中枢と精神的な系譜を同一にしていたことを示している。知恩院が大伽藍として再建された寛永年間、江戸の高徳寺においても、淳澄、源流、隆察など、德川将軍家霊廟を預かる芝の大本山増上寺の「学寮」出身の高僧たちが、歴代住職として晋山する体制が確立された。

総本山知恩院、大本山増上寺、そして江戸城西郭の防衛線を守護する青山高徳寺。この浄土宗守護網の結節点に遠藤宗家は位置していた。德川家康公以来の歴代将軍が知恩院の伽藍に込めた天下泰平の祈りと、高徳寺に世襲された遠藤宗家の臣節は、近世における政治的・宗教的な位置づけを伴いながら、近代へと受け継がれていくこととなる。