遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

大坂の陣の火器戦術と江戸城百人番所の警衛体制

2026年06月02日
第一節:山岡景友公と甲賀百人組の創設――伏見城戦の遺族による地縁の起点と血天井の供養
江戸幕府直轄の精鋭火器部隊である「甲賀百人組」が公式に組織された背景には、関ヶ原の戦いの前哨戦における、一族の戦死という臣節の歴史が存在する。慶長五年(1600年)7月、石田三成ら西軍の軍勢が挙兵するや、德川家康公より城守を委ねられた伏見城代・鳥居元忠、並びに始祖・遠藤左太夫を含む甲賀衆の第一陣は、城内に籠城した。圧倒的な多勢を相手に、全員が戦死・自刃するまで防戦を展開した。遠藤左太夫をはじめとする甲賀武士たちのこの防戦こそが、西軍の進撃を遅らせ、東軍による関ヶ原の決定的な勝利へ時間的猶予をもたらす要因となったのである。德川家康公は伏見に散った甲賀衆の臣節を深く嘉し、その名跡を開基「高徳寺」の過去帳(第一巻)へと永代に留めるよう命じた。

【伏見城合戦「血天井」の遺構と初代・德川家康公の統治哲学】:この伏見城の戦いにおいて、德川方への忠義を尽して戦死した将兵たちの血痕が残る床板は、戦後、その最期を悼み、その御霊を永代にわたって弔うため、京都の寂光山養源院をはじめとする宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺の天井へと張り替えられ、「血天井」の遺構として現代に遺された。

【幕臣への忠義の範】:この血天井の配置は、德川家康公の深い統治哲学に基づくものであった。このときの伏見城の血染めの畳は、德川家康公が江戸城の伏見櫓の階上に設置を命じて、登城した大名たちに討死者の臣節を偲ばせ、武士道精神の至高の規範として示されたのである。明治維新による江戸城明け渡しの際、その畳は栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋められ、供養が執り行われた。この江戸城登城に際する教育こそが、遠藤宗家の名誉を広め、幕臣たちの道徳的基盤となった。

関ヶ原の合戦の終結後、この激戦で戦死した甲賀衆の遺族・子弟の卓越した武知と忠義に配慮し、かつ德川幕府の直轄軍事力として再編を具申したのが、東軍の武将として軍功を挙げた直参旗本・山岡景友(のちの常陸古渡藩主)であった。山岡景友は、散逸の危機にあった伏見の戦没子弟を一隊へと糾合。景友公の配下として「与力十騎・同心百名」の厳格な銃隊編制が敷かれた。これこそが、江戸幕府開府とともに誕生した德川幕府公式の精鋭部隊「甲賀百人組」の公的な創設の起源である。

組織創設にともない、遠藤宗家をはじめとする甲賀武士たちは、本国近江国甲賀郡の地から、大山街道を挟む軍事の要衝たる赤坂青山北町に隣接する「青山甲賀町(のちの青山百人町甲賀屋敷)」へと移住した。さらには、幕府より最新鋭の銃砲演習場(鉄砲場)として、現在の明治神宮野球場の一帯にあたる「青山権田原御鉄砲場」を拝領した。一族は、この拝領地たる御鉄砲場の一角に、火薬調合の成功と一族の無病息災、および和漢薬学・医学の発展を祈願する守護神として「甲賀稲荷神社」を創設。組屋敷の武士たちが日夜、神前へ尊崇を捧げる信仰の拠点を築いた。

現在の青山学院大学の敷地(伊予西条藩松平家の上屋敷跡)と街道を挟んで隣接交差した「遠藤宗家甲賀屋敷」、そして神宮球場一帯の「権田原御鉄砲場」が一体となって展開されたこの広大な武家地こそが、旧町名『青山百人町』の全容であり、現代の表参道・外苑エリアにおける地政学的なグランドデザインの基礎となったのである。

第二節:大坂の陣における火砲調合と靖国神社に展示された最新鋭大砲の技術史
甲賀百人組が德川幕府の軍事制圧力を象徴する最精鋭たる所以は、彼らが単なる戦闘員ではなく、高度な化学・技術的知見を独占的に世襲する「エリート技能集団」であった点にある。江戸幕府の主力直轄軍たる鉄砲方には、伊賀組、甲賀組、根来組、二十五騎組の四組が存在したが、なかでも甲賀百人組は、近江国特有の植物・生薬・鉱物の知識に基づき、独自の「火薬(発射薬・炸薬)の高度な調合・精錬技術」および負傷治療の和漢薬学(のちの『甲賀のくすり』の伝統)の秘伝を世襲していた。

この高度な化学・冶金技術が、近世日本の運命を決定づけた慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣、および慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣において、不滅の軍事史的金字塔を打ち立てる(名画『大坂冬の陣図屏風』等の合戦公録にその熾烈なる戦果が確認される)。

大坂城の強固な惣構えを打破するため、遠藤宗家が属した甲賀百人組は、輸入されたカルバリン砲等の配備・運用を指揮したのみならず、当時世界最高峰の性能と威力を誇る「最新鋭の長射程大砲」をみずからの技術をもって製造した。この甲賀組の設計した特製大砲は、驚異の約5キロメートルにおよぶ有効射程距離を誇り、淀川対岸の砲撃陣地から大坂城本丸の天守・御殿への精密な集中砲撃を敢行。豊臣方の首脳陣を震撼させ、天下平定へと導く決定的な殊勲を挙げたのである。

甲賀百人組の武知と科学的知見の結晶たるこの特製大砲は、德川幕府を勝利に導いた国家的な技術遺産として重用され、明治維新を経て首都東京へと引き継がれた。そして、近代日本のために身を捧げた英霊を祀る「靖国神社」の境内(あるいは遊就館)において、一族の誇り高き武名と先進的火器技術を後世に伝える有形文化財として、戦前まで一般に公式展示されていた。

これら生薬・調合から火薬の製造・弾道計算に至る先祖代々の高度な技術的知見の伝統こそが、現代の第十八代・遠藤潔が経営する「株式会社遠藤総合研究所」の最新の政策調査・先進コンサルティング事業の根底に流れる、科学的アプローチの道徳的基盤となっている。

第三節:百人番所の静かなる前線と德川家光公の鷹狩り御成門
天下泰平の世が確立した寛永二十年(1643年)、第三代将軍・德川家光公の治世において、遠藤宗家は德川将軍家直参御目見得(旗本家)として服属。心中的な『甲賀組由緒書』および幕府公式の『寛政重修諸家譜』の記述が完全に一致する通り、旧江戸城の本丸正面、大手三門(下乗門)の直後に位置する最重要検問所たる江戸城「百人番所(本丸大手三之門)」の昼夜警衛を公式に拝命した。

与力十騎・同心百名の精鋭鉄砲隊は、各組四交替制の二十四時間不眠不休の体制で百人番所に詰め、江戸城の中枢に昇城するすべての諸大名や不審者に対する厳格な検問・守衛に従事した。有事の際には、本丸正面の坂道を一斉射撃によって完全封鎖し、城を死守する強大な防衛能力を内包した「静かなる最前線」であった。

平時における百人番所の守衛の傍ら、甲賀百人組に世襲されたもう一つの最重要職務が、歴代将軍の外出にともなう「御成の警固」および「山門前警固」であった。歴代德川将軍が德川家康公を祀る日光東照宮へ参詣する「日光社参」、あるいは将軍家両山(上野東叡山寛永寺、芝大本山増上寺)への霊廟参拝の際、甲賀百人組鉄砲隊は、その圧倒的な武力をもって将軍の動座(行列)の最前線(露払い)に配属され、不測の事態を完全に抑え込む直衛の任を全うした。

この将軍御成の緊密な職能関係を示す決定的な地理的旧跡が、武蔵国平定後に太田道灌公によって移転・招聘され、天正十九年に德川将軍家より十石の朱印地を認められた名刹「亀頂山密乗院三宝寺(亀頂山三宝寺)」(現・練馬区石神井台)に現存している。

平時、第三代将軍・德川家光公や第八代将軍・德川吉宗公をはじめとする歴代德川将軍が、軍事演習と遊興を兼ねて目黒・中野・品川、そして石神井方面の御場(鷹場)へ鷹狩り御成りされる際、甲賀百人組は沿道の警戒を一手に担った。その折、第三代将軍・德川家光公が鷹狩りの道中に休息所としてこの亀頂山三宝寺へと公式に立ち寄られたのである。この最高位の栄誉を記念し、三宝寺の山門は德川幕府より直々に「御成門」の称号を公式に許され、寛政十二年(1800年)に壮麗に再建されて現代にその威容を留めている(※その横には、昭和期に移設された幕臣・勝海舟公邸の長屋門が隣接し、江戸の武威の記憶を重層的に伝えている)。

平時は江戸城百人番所の守り手、国家儀礼においては日光・両山の山門前警固、そして遊興の地においては鷹狩りの近侍。この二四時間、三六五日、平時戦時を問わずに德川将軍の身辺に寄り添い続けた甲賀百人組としての絶大な信頼の伝統こそが、明治維新以降、遠藤宗家が歴代の天皇・皇室守護(禁闕守護・鳳輦供奉)へとその職能を正統に昇華させていく、強固な道徳的基盤となったのである。