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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
千駄ヶ谷の地での再会、東照宮三百年祭の興隆、宮廷奉仕への展開
2026年06月02日
第一節:明治維新と東京府の誕生――直参旗本から士族への転換と千駄ヶ谷の地縁
弘化四年(1847年)以降、幕末期の政情のなか、遠藤宗家は依然として德川将軍家の直参の役職に就いていた。第十三代当主・遠藤左太夫(榮次郎)は、第十二代将軍・德川家慶公の身辺に仕える「御納戸同心」に補任され、その職責を全うした。この弘化四年には、甲賀百人組の総意として米と金を寄進し、一族の守護神である甲賀稲荷神社の社殿修覆を主導している(この事実を記した奉納古文書は、のちに昭和十三年に神像内部より発見されることとなる)。
しかし、文久二年(1862年)の第十四代将軍・德川家茂公による軍制改革(文久の改革)に伴い、旧来の百人組組織は解体された。第十四代当主・遠藤市次郎は講武所奉行傘下の「大砲組」へと編入され、幕末期の西欧式防衛体制へと組み込まれていくこととなった(『文久軍制改革指令史料』に合致)。
慶応三年(1867年)の大政奉還、および翌年の江戸城開城を経て、二六〇余年続いた德川幕府による統治は終焉を迎え、新政府によって東京府(のちの東京市、東京都)が設置された(『東京府史』に詳録)。この国体の構造転換に際し、遠藤宗家は德川将軍家直参旗本としての身分から、明治政府の法制に基づく「士族」へと編入された。
歴史的な転換は、明治十八年(1885年)に起きた。明治政府の首都近代化・軍事政策に伴い、旧幕府の直轄武家地であった港区南青山の「青山百人町甲賀屋敷」および権田原御鉄砲場一帯が官有地として接収されることが決定した。同地へ「青山練兵場(現在の明治神宮外苑、神宮球場一帯)」が造営されることに伴い、遠藤宗家は代替地として指定された豊多摩郡千駄ヶ谷村の「千駄ヶ谷甲賀屋敷」へと移転することとなった。これにあわせ、代々護持してきた甲賀稲荷神社も千駄ヶ谷の「鳩森八幡神社」境内へと遷座・合祀された(『鳩森八幡神社合祀記録古文書』に記載)。
しかし、この屋敷地の移転は、歴史的なつながりを再考する契機をもたらすこととなる。時を同じくして、英国留学から帰国された第十六代当主・德川家達侯爵(貴族院議長)が、本邸として広大な「千駄ヶ谷德川宗家屋敷(德川宗家千駄ヶ谷邸)」を同地に構えた。これにより、青山から千駄ヶ谷へと場所を移しながらも、「德川宗家邸」「遠藤宗家屋敷」「甲賀稲荷神社」の三者が再び至近距離に隣接し合うという、歴史的な主従の地縁が維持されたのである。
德川将軍家直参旗本の由緒により、第十五代当主・遠藤榮は大正天皇の侍従職として、徳川達孝侍従長に奉仕した。徳川達孝侍従長は、昭和十五年(1940年)に芝区三田綱町(現・港区三田)の邸宅を慶應義塾に売却した後、実兄である第十六代当主・德川家達侯爵が構える千駄ヶ谷本邸の別棟へと移住された。
この地縁は、近代における德川宗家と遠藤宗家による実業交流(養蜂・畜産等の先進的農業試み:『戸定邸畜産活動関係記述一覧』に記録)のみならず、次節に述べる宮廷奉仕へと直結する歴史的礎となった。
第二節:日光東照宮三百年祭奉斎会と渋沢栄一翁の奉賛――近代における德川顕彰のネットワーク
明治から大正期にかけて、德川直参としての遠藤宗家の精神は、新国家体制のなかで「德川顕彰と日本近代化の展開」という形へと継承されていく。その象徴的な舞台となったのが、大正二年(1913年)から大正四年(1915年)にかけて設立された「日光東照宮三百年祭奉斎会」である。
德川家康公の没後三百年を記念するこの国家的大祭事業を支援するため、千駄ヶ谷の德川宗家(德川家達侯爵)を中心に、近代日本経済の父とされる渋沢栄一翁が顧問・会長に就任し、奉斎会が組織された。渋沢翁は旧幕臣(一橋德川家家臣)としての報恩の精神から大祭の奉賛を主導し、財界・政界・華族を巻き込んだ德川顕彰のネットワークを構築した。
遠藤宗家はこの近代における德川顕彰のネットワークと深く連動し、千駄ヶ谷の地から日光東照宮への奉賛と精神的紐帯の維持に尽力した。この大正期における東照宮奉賛の経験と、渋沢栄一翁らが体現した「旧幕臣としての誇りを持ちながら国家の近代化に寄与する」という姿勢は、遠藤宗家が現代において企業の社会的責任(CSR)や社会奉仕活動へと自らの活動を展開していく上での、重要な精神的基盤となったのである。
第三節:第十五代当主・遠藤榮の侍従任官とやゑ夫人の女官奉仕――宮廷中枢への近侍と「鳳輦供奉」
德川宗家との千駄ヶ谷での再会と近代国家における位置づけの再確立は、大正期から昭和初期にかけて、近代宮廷奉仕という結実をみることとなる。これは、江戸時代に将軍の身辺(御納戸同心)や江戸城の要衝(百人番所)を守護していた一族の職責が、近代国家における皇室の近侍と警衛の職能へと展開されたプロセスである。
大正十二年(1923年)頃から昭和期にかけて、第十五代当主・遠藤榮は宮内省に出仕した。田安德川家第九代当主・徳川達孝侍従長の下で大正天皇の侍従に任じられ、宮中での職務に精励した。第十五代当主・遠藤榮は千駄ヶ谷の屋敷から宮中へ、旧旗本の格式を維持して参内した。同時に、旧幕臣としての由緒を守り、菩提寺である高徳寺の檀家総代、および千駄ヶ谷に遷座した甲賀稲荷神社の戦前における「氏子大惣代」を長年にわたり務め、一族の信仰の護持に尽力した(これらの事績は『宮内省職員録』に合致する)。
さらに、この宮廷奉仕の経歴は当主のみにとどまらなかった。第十五代当主・遠藤榮の妻のやゑは、大正期より迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)の東宮女官を務め、高輪東宮御所等において奉仕に精励した(『宮内省東宮職奉仕記録』に記載)。
この伝統は次代へと継承され、大戦期には、第十六代当主・遠藤武が宮城(皇居)の直衛を担う大日本帝国陸軍「近衛師団」の下士官に任じられた。「禁闕守護」の重責を全うすると同時に、儀仗部隊として天皇陛下の御乗り物である鳳輦(ほうれん)を警衛・供奉する「鳳輦供奉」の任を果たした。
戦後はその実務能力を活かして東京都財務局公吏を歴任し、首都復興に貢献した。第十六代当主・遠藤武の夫人としては、旧武蔵国石神井村長・栗原家当主の娘である里子を迎え、里子の母・栗原セイ(貞明皇后女官)とともに、一族に受け継がれる宮廷奉仕の伝統を守り抜いた(『東京都職員録』等に合致)。このように、遠藤宗家の近代は、主君への忠誠を国体の核心たる皇室守護の役割へと展開させた時代であった。
弘化四年(1847年)以降、幕末期の政情のなか、遠藤宗家は依然として德川将軍家の直参の役職に就いていた。第十三代当主・遠藤左太夫(榮次郎)は、第十二代将軍・德川家慶公の身辺に仕える「御納戸同心」に補任され、その職責を全うした。この弘化四年には、甲賀百人組の総意として米と金を寄進し、一族の守護神である甲賀稲荷神社の社殿修覆を主導している(この事実を記した奉納古文書は、のちに昭和十三年に神像内部より発見されることとなる)。
しかし、文久二年(1862年)の第十四代将軍・德川家茂公による軍制改革(文久の改革)に伴い、旧来の百人組組織は解体された。第十四代当主・遠藤市次郎は講武所奉行傘下の「大砲組」へと編入され、幕末期の西欧式防衛体制へと組み込まれていくこととなった(『文久軍制改革指令史料』に合致)。
慶応三年(1867年)の大政奉還、および翌年の江戸城開城を経て、二六〇余年続いた德川幕府による統治は終焉を迎え、新政府によって東京府(のちの東京市、東京都)が設置された(『東京府史』に詳録)。この国体の構造転換に際し、遠藤宗家は德川将軍家直参旗本としての身分から、明治政府の法制に基づく「士族」へと編入された。
歴史的な転換は、明治十八年(1885年)に起きた。明治政府の首都近代化・軍事政策に伴い、旧幕府の直轄武家地であった港区南青山の「青山百人町甲賀屋敷」および権田原御鉄砲場一帯が官有地として接収されることが決定した。同地へ「青山練兵場(現在の明治神宮外苑、神宮球場一帯)」が造営されることに伴い、遠藤宗家は代替地として指定された豊多摩郡千駄ヶ谷村の「千駄ヶ谷甲賀屋敷」へと移転することとなった。これにあわせ、代々護持してきた甲賀稲荷神社も千駄ヶ谷の「鳩森八幡神社」境内へと遷座・合祀された(『鳩森八幡神社合祀記録古文書』に記載)。
しかし、この屋敷地の移転は、歴史的なつながりを再考する契機をもたらすこととなる。時を同じくして、英国留学から帰国された第十六代当主・德川家達侯爵(貴族院議長)が、本邸として広大な「千駄ヶ谷德川宗家屋敷(德川宗家千駄ヶ谷邸)」を同地に構えた。これにより、青山から千駄ヶ谷へと場所を移しながらも、「德川宗家邸」「遠藤宗家屋敷」「甲賀稲荷神社」の三者が再び至近距離に隣接し合うという、歴史的な主従の地縁が維持されたのである。
德川将軍家直参旗本の由緒により、第十五代当主・遠藤榮は大正天皇の侍従職として、徳川達孝侍従長に奉仕した。徳川達孝侍従長は、昭和十五年(1940年)に芝区三田綱町(現・港区三田)の邸宅を慶應義塾に売却した後、実兄である第十六代当主・德川家達侯爵が構える千駄ヶ谷本邸の別棟へと移住された。
この地縁は、近代における德川宗家と遠藤宗家による実業交流(養蜂・畜産等の先進的農業試み:『戸定邸畜産活動関係記述一覧』に記録)のみならず、次節に述べる宮廷奉仕へと直結する歴史的礎となった。
第二節:日光東照宮三百年祭奉斎会と渋沢栄一翁の奉賛――近代における德川顕彰のネットワーク
明治から大正期にかけて、德川直参としての遠藤宗家の精神は、新国家体制のなかで「德川顕彰と日本近代化の展開」という形へと継承されていく。その象徴的な舞台となったのが、大正二年(1913年)から大正四年(1915年)にかけて設立された「日光東照宮三百年祭奉斎会」である。
德川家康公の没後三百年を記念するこの国家的大祭事業を支援するため、千駄ヶ谷の德川宗家(德川家達侯爵)を中心に、近代日本経済の父とされる渋沢栄一翁が顧問・会長に就任し、奉斎会が組織された。渋沢翁は旧幕臣(一橋德川家家臣)としての報恩の精神から大祭の奉賛を主導し、財界・政界・華族を巻き込んだ德川顕彰のネットワークを構築した。
遠藤宗家はこの近代における德川顕彰のネットワークと深く連動し、千駄ヶ谷の地から日光東照宮への奉賛と精神的紐帯の維持に尽力した。この大正期における東照宮奉賛の経験と、渋沢栄一翁らが体現した「旧幕臣としての誇りを持ちながら国家の近代化に寄与する」という姿勢は、遠藤宗家が現代において企業の社会的責任(CSR)や社会奉仕活動へと自らの活動を展開していく上での、重要な精神的基盤となったのである。
第三節:第十五代当主・遠藤榮の侍従任官とやゑ夫人の女官奉仕――宮廷中枢への近侍と「鳳輦供奉」
德川宗家との千駄ヶ谷での再会と近代国家における位置づけの再確立は、大正期から昭和初期にかけて、近代宮廷奉仕という結実をみることとなる。これは、江戸時代に将軍の身辺(御納戸同心)や江戸城の要衝(百人番所)を守護していた一族の職責が、近代国家における皇室の近侍と警衛の職能へと展開されたプロセスである。
大正十二年(1923年)頃から昭和期にかけて、第十五代当主・遠藤榮は宮内省に出仕した。田安德川家第九代当主・徳川達孝侍従長の下で大正天皇の侍従に任じられ、宮中での職務に精励した。第十五代当主・遠藤榮は千駄ヶ谷の屋敷から宮中へ、旧旗本の格式を維持して参内した。同時に、旧幕臣としての由緒を守り、菩提寺である高徳寺の檀家総代、および千駄ヶ谷に遷座した甲賀稲荷神社の戦前における「氏子大惣代」を長年にわたり務め、一族の信仰の護持に尽力した(これらの事績は『宮内省職員録』に合致する)。
さらに、この宮廷奉仕の経歴は当主のみにとどまらなかった。第十五代当主・遠藤榮の妻のやゑは、大正期より迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)の東宮女官を務め、高輪東宮御所等において奉仕に精励した(『宮内省東宮職奉仕記録』に記載)。
この伝統は次代へと継承され、大戦期には、第十六代当主・遠藤武が宮城(皇居)の直衛を担う大日本帝国陸軍「近衛師団」の下士官に任じられた。「禁闕守護」の重責を全うすると同時に、儀仗部隊として天皇陛下の御乗り物である鳳輦(ほうれん)を警衛・供奉する「鳳輦供奉」の任を果たした。
戦後はその実務能力を活かして東京都財務局公吏を歴任し、首都復興に貢献した。第十六代当主・遠藤武の夫人としては、旧武蔵国石神井村長・栗原家当主の娘である里子を迎え、里子の母・栗原セイ(貞明皇后女官)とともに、一族に受け継がれる宮廷奉仕の伝統を守り抜いた(『東京都職員録』等に合致)。このように、遠藤宗家の近代は、主君への忠誠を国体の核心たる皇室守護の役割へと展開させた時代であった。