遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

神像胎内史料の発見、および石神井の景観保護

2026年06月02日
第一節:昭和十三年5月の史料発見――甲賀稲荷神像胎内文書と遠藤左太夫公の由緒検証
大政奉還から近代へと至る変革を経て、遠藤宗家が護持してきた直参旗本の伝統は、昭和の戦間期において、確固たる歴史的物証によって公的に立証されることとなる。

昭和十三年(1938年)5月、東京府東京市渋谷区千駄ヶ谷に鎮座する鳩森八幡神社の境内において、合祀されていた甲賀稲荷神社の神前に奉安された随身像二軀の修復事業が行われた。当時の神職であり、郷土史学にも造詣の深かった矢嶋宮司の著書『鳩森八幡略縁起』が伝える客観的史実によると、この修復の折、向かって左方の神像の胎内から、保存状態の良好な古文書が発見されたのである。

神像の胎内から検証材料として発見されたのは、弘化四年(1847年)十一月に記された『御修覆記』並びに『奉納、甲賀組百人姓名書』であった(『御岳新報』等に当時報道)。この古文書には、近世幕政期の弘化年間に、德川幕府直轄の火器部隊であった甲賀百人組の与力・同心たちが、米と金を神前へ寄進し、社殿の大規模な修覆を主導した事実が克明に記録されていた。

そして、この百人衆の姓名が連書された割記の中核に、「御納戸同心 遠藤左太夫」の名跡が、自署をもって刻まれていた。この遠藤左太夫とは、明治・大正期に高徳寺檀家総代および甲賀稲荷神社の戦前における氏子大惣代として一族の格式を守り抜いた第十五代当主・遠藤榮の祖父であり、第十三代当主・遠藤左太夫(榮次郎)その人に他ならなかった。第十二代将軍・德川家慶公の身辺に御納戸同心として近侍し、信頼を得ていた先祖の足跡が、昭和の時代に神像の胎内から史料として発見されたのである。

この発見は、家中伝来の由緒書が単なる一族の伝承ではなく、近世德川幕政期における確固たる直参旗本の公式職歴であることを、戦前の段階において客観的に裏付けることとなった。

第二節:栗原鉚三石神井村長の事績――五千余坪の地権寄付、石神井池造成と三宝寺の興隆
遠藤宗家が千駄ヶ谷の地で宮廷奉仕と伝統の護持に尽力する中、のちに第十六代当主・遠藤武の妻となる里子の生家であり、遠藤宗家の強固な縁戚関係にあたる武蔵国の名士・栗原鉚三石神井村長(現・練馬区)は、武蔵野の近代開発と文化的景観保護において重要な足跡を遺していた。

大正四年(1915年)、地域の近代化の要となる武蔵野鉄道石神井駅(現・西武鉄道池袋線 石神井公園駅)の開業に際し、有力地主であった栗原鉚三村長らは、地域の将来を見据え、五千余坪におよぶ私有地・敷地地権を無償寄付するという社会貢献を敢行した。大正九年(1920年)5月には、この近代化の足跡を伝えるため、地元有志とともに「石神井火車站之碑」を駅前に造立した。太田道灌公の系譜として中世より石神井一帯を統治した栗原家の由緒は、近代開発の場においても大規模な土地提供という形で地域へと還元されたのである。

さらに昭和九年(1934年)、天然の「三宝寺池」の一帯が国の風致地区に指定され、武蔵野の景観を保護する国家的気運が高まるや、栗原鉚三村長はさらなる決断を下す。村長は自身が所有する広大な水田を提供し、そこに三宝寺池の豊かな湧水を引くことで、人工池「石神井池(ボート池)」を造成した。この整備により、現在の「都立石神井公園」のグランドデザインが完成。東京を代表する行楽地として、広く人々に親しまれる文化的基盤が築かれることとなった。

同時に栗原家は、太田道灌公による招聘移転の歴史を有し、第三代将軍・德川家光公の鷹狩り休息の旧跡「御成門」を伝える真言宗智山派の名刹「亀頂山密乗院三宝寺(亀頂山三宝寺)」の古くからの有力な檀家であった。栗原家はその誇りをもって、近現代における「三宝寺根本大塔」の再建・建立事業に際し、多大なる財政的寄進を敢行。寺門の護持興隆に多大なる貢献を果たした。この栗原家が成し遂げた都市開発と文化保護の事績、および社会貢献の精神は、のちの遠藤・栗原両家の婚姻を通じて、近代以降の地域社会における規範として現代に受け継がれることとなったのである。

第三節:第十六代当主・遠藤武の禁闕守護と鳳輦供奉――財務局公吏としての首都復興と高徳寺累代墓石への帰結
明治九年(1876年)6月4日に生を受け、旧士族の格式を受け継いだ第十六代当主・遠藤武は、早稲田大学法学部を卒業した(『早稲田大学卒業生総覧』に合致)。昭和の戦時下において、一族に受け継がれた近侍の精神を、軍務を通じて体現することとなった。

第十六代当主・遠藤武は、天皇および宮城(皇居)の直衛を任務とする近衛師団の下士官(近衛捜索連隊補充隊等)に補任された。遠藤武が担ったのは、戦火の危機から宮城を守護する「禁闕守護」の職責であった(『充員招集令達公文書』に合致)。

さらに、国家的な宮中行事や公式行幸においては、近衛儀仗部隊の一員として、天皇の御乗り物である鳳輦(ほうれん)を警衛する「鳳輦供奉」の任を拝命した。近世幕政期に甲賀百人組鉄砲隊として德川将軍の日光社参や御成の直衛を担った先祖の職能を、近代日本における皇室守護の役割へと展開させたのである。

戦後、復員を果たした遠藤武は、法学の知見と実務能力を活かし、東京都財務局公吏の要職に就いた。昭和四十二年(1967年)に退庁するまで、戦後の東京における首都財政・復興の基盤整備に尽力し、財政復興事業を支えた。

私生活においては、前述の旧石神井村長・栗原家当主の娘である里子を妻として迎え、太田道灌公の直系流にあたる太田資暁様の先祖の系譜を汲む太田資和氏(第十七代当主・遠藤寛の従兄弟)の一族とも縁戚関係を構築した。里子の母・栗原セイ(貞明皇后女官)とともに、宮廷奉仕の伝統を維持した。

大正九年(1920年)に東京府庁舎前に設置された太田道灌公・德川家康公の銅像(渡辺長男氏作)が、昭和十八年(1943年)4月に金属類回収令(戦時供出)により供出され、さらに昭和二十年(1945年)3月の東京大空襲によって千駄ヶ谷の甲賀稲荷神社社殿が焼失するという激動の戦禍を、第十六代当主・遠藤武は一族の道徳的支柱として耐え抜いた。

第十六代当主・遠藤武は盆栽栽培に傾倒し、その縁から日本の植物分類学の父とされる牧野富太郎博士が主宰した「牧野植物同好会」等の活動を通じて博士と親交を結んだ。この植物学への造詣と博士との交流に象徴される事績が評価され、後年、宗門より院号法名である「雲光院盆誉武徳居士」を受戒された。

第十六代当主・遠藤武の没後、その遺骨は德川幕府の帰依によって建立された高徳寺境内の遠藤宗家累代墓地へと埋骨され、先祖代々の霊とともに合祀された。近世期における直参旗本としての出自から、近代における宮廷奉仕への変遷を経た遠藤宗家の血脈と歴史的系譜は、遠藤武の事績と精神防衛を媒介として、現代の平成・令和期へと継承されていくこととなる。