遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

世界文化遺産「古都京都の文化財」

2026年07月26日
【 伏見城籠城戦における「遠藤左太夫」の動向と歴史的意義 】
慶長五年(1600年)7月、五大老・德川家康公の会津出陣(上杉景勝征伐)の隙を突き、五奉行の石田三成ら西軍が挙兵した。この歴史的転換期において、東軍の最前線となったのが山城国伏見城である。城代・鳥居元忠を中心とする東軍守備隊は、西軍の大軍を迎え撃つべく決死の籠城を展開した。

この守備隊の第一陣には、德川家への臣従の意志をいち早く示した近江の有力国人・山岡景友(道阿弥)の呼びかけに応じ、国境を越えて駆けつけた近江国甲賀郡の郷士(地侍)約70名が含まれていた。その中核の一員として従軍したのが、甲賀武士の系譜を引く遠藤宗家の始祖・遠藤左太夫である。

同年7月19日からの攻防戦において、遠藤左太夫ら甲賀衆は城内の要所である名古屋丸等の防衛線に配備され、押し寄せる西軍の猛攻を阻み続けた。8月1日の落城にいたるまで、彼らは降伏を拒み、全員が戦死または自刃を遂げた。この壮絶な防戦は、西軍の西上を物理的に遅延させ、東軍(德川本隊)が小山評定を経て反転し、関ヶ原の本戦において決定的勝利を収めるための決定的な「時間的猶予(タイム・スパン)」を創出した。

すなわち、遠藤左太夫をはじめとする甲賀衆の犠牲は、単なる一地方武士の玉砕ではなく、安土桃山時代から江戸時代への権力移行・天下平定を決定づけた枢要な軍事行動として、日本の近世史において極めて高く位置づけられる。

【 構成資産および関連寺院における「血天井」の重層的供養空間 】
激戦の舞台となった伏見城は落城後、西軍の管理下に置かれたが、本丸等の床板には2ヶ月以上にわたり放置された東軍戦死者の遺骸から流出した血脂が深く染み込んでいた。関ヶ原の戦いにおける勝利後、德川家康公はこれら忠臣たちの壮烈な最期を顕彰し、その霊を永く弔うため、当該床板を取り外して京都の複数の主要寺院へと移築させ、天井板(いわゆる「血天井」)として再利用するよう命じた。これは、戦死者の「血」を畏怖しつつも、それを最高礼拝空間の天井へと昇華させることで、永続的な供養を試みる近世初期特有の空間政治学であった。

・世界遺産「醍醐寺」の系譜と養源院における象徴性
伏見城の血天井を現代に伝える最も代表的な遺構が、京都市東山区に位置する蓮華王院(三十三間堂)東隣の「養源院」である。養源院は元来、豊臣秀吉の側室・淀殿が父である浅井長政の菩提を弔うために文禄三年(1594年)に創建した豊臣ゆかりの寺院であった。

しかし、歴史的・宗派的な系譜において、同院は世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産である「醍醐寺」の塔頭(三宝院院家)として建立・管轄された経緯を持つ。慶長五年の兵火により一度は焼失したものの、元和七年(1621年)、德川秀忠公の正室・崇源院(お江)の願により、幕府主導での再興がなされた。その際、本堂の天井に張られたのが、遠藤左太夫らが散華した伏見城の遺構(廊下の床板)である。同院の天井には、現代に至るまで武士たちの足跡や手形、生々しい血痕の跡が確認でき、遠藤宗家の公式記録(家譜)においても、始祖が臣節を尽くした象徴的空間、および宗家精神の原点として重く位置づけられている。

・京都守護の空間的ネットワークと血天井の点在
さらに、伏見城戦死者の供養は養源院だけに留まらず、京都の都市空間を網羅するように複数の寺院へと分散・配置された。洛北の鷹峯に位置する「源光庵」、一乗寺の「正伝寺」、大原の「宝泉院」、そして宇治の「興聖寺」などがそれにあたる。

これらの寺院は、王城(京都)の四方を囲むように点在しており、それぞれの宗教空間において遠藤左太夫ら甲賀衆の忠魂が日常的に読経・供養される構造が作られた。特に「正伝寺」や「源光庵」は枯山水庭園や窓(悟りの窓・迷いの窓)と血天井が一体となった美学的・宗教的空間を構成しており、中世的な戦乱の記憶を近世的な平穏(徳川の平和)へと昇華・調伏する、高度な思想的仕掛けとして読み解くことができる。

【 近江郷士の地縁・宗派的背景と「山岡景友」の結合軸 】
遠藤宗家をはじめとする甲賀衆が、伏見城という山城(やましろ)の地で迅速に東軍として結集できた背景には、近江国における根深い地縁組織(甲賀郡中惣)と、それを束ねた山岡景友(道阿弥)の存在がある。山岡氏は近江瀬田城主の家系であり、織田・豊臣の時代を通じて近江国人衆や甲賀・伊賀の郷士層と密接なネットワークを有していた。

また、山岡景友はかつて三井寺(園城寺)の光浄院住持を務めた経緯があり、近江の宗教的権威とも深く結びついていた。德川家康の命を受けた景友が近江国で発したゲリラ戦および伏見城への動員要請は、遠藤氏ら甲賀郷士にとって「德川への忠誠」であると同時に、「近江における自立と地権の確保」を賭けた中世以来の主体的な政治判断であった。世界遺産である比叡山延暦寺や、その山麓の近江の地から京都へと至る「地縁・宗派の動線」が、伏見城における遠藤左太夫の軍事行動を支える基盤となっていたのである。

【 甲賀百人組の結成と江戸幕府権力構造への組み込み 】
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、近世幕藩体制が確立していく過程で、德川家康公は遠藤左太夫ら伏見城戦死者の忠烈を永く賞し、その恩賞として格別の措置を講じた。幕府は、戦死した甲賀武士の遺族や生存した子弟(近江郷士)を江戸へと召し出し、与力10人・同心100人からなる「甲賀百人組(甲賀組鉄砲百人組)」を正式に編成したのである。

遠藤宗家はこれ以降、代々「左太夫」の名跡を襲名することを許され、幕府直臣(旗本・直参御目見得、高数十石)としての家格を確立した。甲賀百人組は、江戸城の防衛要衝である大手三之門の警衛(現在の皇居東御苑に現存する「百人番所」での詰め)や、德川将軍が日光東照宮や寛永寺・増上寺へ参詣する際の近接身辺警護を担う、幕府最高峰の親衛隊へと改編されていく。

さらに、彼らには有事の際の甲州街道(西境)の防衛線として、現在の千駄ヶ谷(現在の国立競技場周辺)、青山百人町(現在の神宮球場・表参道周辺)に広大な組屋敷が与えられ、権田原に鉄砲演習場を拝領した。すなわち、京都(伏見)という空間における犠牲と忠誠の記憶が、江戸という新都における軍事・都市空間の職制(百人番所・百人同心・組屋敷地名)の成立を導く直接的な契機となったのである。

【 歴史的モニュメントとしての文化財 】
遠藤宗家(甲賀組)と、京都の世界遺産群(とりわけ醍醐寺の宗派的系譜に連なる養源院や、伏見・洛中洛外の歴史空間)は、慶長五年の伏見城籠城戦における戦死という史実を基軸として、精神的・空間的、そして制度的に深く結合している。

京都に現存する中世・近世の文化財および血天井の遺構は、単なる建築的意匠や観光的遺産にとどまらない。それは、遠藤左太夫をはじめとする近江甲賀衆の臣節の記憶を建築構造の中に「固定化(モニュメント化)」した歴史的媒体であり、同時に、地方の地侍(国人層)が江戸幕府の中枢を支える直参旗本へと脱皮・昇華していく「権力構造のオリジン(起点)」を物理的に証明する、極めて学術的価値の高い文化的拠立点である。