遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤宗家にみる德川権力と甲賀武士団の主従関係変遷

2026年08月01日
織豊期から江戸初期における領主と在地武士団の主従関係は、単一の奉公契約ではなく、多分に政治的・軍事的な利害の一致(契約的結合)から出発し、やがて絶対的な身分統制と官僚的組織への組み込み(階層的組織化)へと変遷を遂げた。德川将軍家直参旗本の系譜を引く遠藤宗家(始祖:遠藤左太夫)の動向は、単なる一過性の武功譚ではなく、近江のインディペンデントな「在郷武士(土豪)」が、德川権力の「空間的・職能的統制」を経て、「幕藩体制下の直臣(旗本・同心)」へと変容していく構造的プロセスを実証的に示す好例である。

1. 神君伊賀越えにおける契約的臣節
天正十年(1582年)の本能寺の変に際し、德川家康公の堺から三河への脱出(神君伊賀越え)を支援した甲賀武士団の行動は、中世的な「在郷の自立性」に基づいた臣節であった。
神君伊賀越え(1582)での軍事・警護奉公(一時的臣節)
•中世的結合と戦術的奉公
当時の甲賀衆と德川氏の間には、固定的な主従関係(世襲的恩顧)は未だ存在しない。甲賀武士団は織田政権崩壊後の天下の趨勢を洞察し、自己の存続と権益確保の観点から德川家康公の警護を買って出た。
•軍事・情報能力の提供
遠藤左太夫をはじめとする在地武士は、ゲリラ戦術や地勢を武器に、德川家康公に実利的な軍事奉公を提供した。この時点での「臣節」は、相互の利害関係に立脚した「対等性の残る契約関係」の域を出るものではなかった。

2. 関東移封と空間的・職能的統制
天正十八年(1590年)豊臣政権による小田原征伐の結果、德川家康公は五カ国から関東(武蔵国ほか)へと国替えを命じられる。この「関東移封」および「江戸入府」こそが、遠藤宗家ら甲賀武士の主従関係を決定的に変容させる契機となった。
青山・千駄ヶ谷への組屋敷割当て = 都市警備職能への完全組織化
•地縁の解体(郷村からの乖離)
德川家康公の関東移封に伴い、遠藤宗家ら甲賀衆も父祖の地である近江国を離れ、江戸への移住を余儀なくされた。これは、彼らの自立性の基盤であった「土地(在郷の権益)」からの切り離し(兵農分離・改易に準ずる措置)を意味する。
•空間的統制と職能化
江戸入府後、甲賀組は青山百人町や千駄ヶ谷周辺に広大な組屋敷を拝領した。これは単なる宅地の付与ではなく、江戸城西方の防衛・警備という「職能」を固定化するための空間的配置である。これにより、在郷の土豪は、主君から俸禄(知行・扶持)と居住地を与えられ、都市の軍事機構を専門に担う「直臣(旗本・同心)」へと純化された。

3. 伏見城籠城戦と「絶対的・制度的忠誠」の完成
関東移封によって緊密化した主従関係は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の前哨戦である「伏見城籠城戦」において、血縁的・組織的な絶対の絆へと昇華する。
•精忠の体現と殉死
石田三成らの挙兵に対し、遠藤左太夫らは德川方の伏見城守備隊(鳥居元忠ら)の第一陣として籠城。総勢約1,800名とともに玉砕(ほぼ全員が討死)するまで城を死守した。この凄惨な殉死は、単なる契約奉公を超えた「至高の忠誠(精忠)」として徳川家側に記憶されることとなる。
•甲賀百人組(百人同心)の制度化
戦後、家康は左太夫らの功績と犠牲を高く評価し、その子孫(遠藤宗家など)を再結集させて「甲賀百人組(百人同心)」を正式に制度化した。江戸城大手三門(百人番所)の警備という、德川将軍の身辺を全うする最高位の警備職への就任は、伏見での殉死を契機に、主従関係が「世襲的かつ不可逆的な組織秩序」として完成したことを裏付けている。

遠藤宗家の歴史的軌跡は、織豊期から近世への過渡期における主従関係の質的転換を雄弁に物語っている。天正十年(1582年)の「神君伊賀越え」段階における「在地自立性を有した即物的な軍事契約」は、天正十八年(1590年)の「関東移封」による「土地(地縁)の剥奪と職能的配置」を経て解体され、慶長五年(1600年)の「伏見城籠城」にいたる一連の過程の中で「将軍家への絶対的服従と世襲的官僚制(旗本・同心)への組み込み」へと昇華・固定化されたのである。