遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

赤坂青山北町「高徳寺」建立と遠藤宗家開基

2026年08月01日
近世権力による都市空間の造営において、在地武士団の移動(国替え・移封)は、単なる肉体的な人口移動にとどまらず、彼らの依拠する信仰空間・精神的結合の再編を伴う。天正七年(1579年)の創建から天正十八年(1590年)の江戸入府、そして赤坂青山北町(現・東京都港区北青山)への定着に至る浄土宗高徳寺の動向は、開基家である遠藤宗家を核とした甲賀武士団が、德川権力への「空間的・職能的統制」を宗教的紐帯によっていかに内面化し、制度化していったかを示す象徴的事例である。

1. 信仰空間のトランスレート:近江国甲賀郡から武蔵国江戸への変遷
高徳寺の青山北町への移転・定着は、在郷の紐帯(地縁)を解体された甲賀武士団に対し、新たな居住地(青山百人町)での定着と職能(江戸城西方防衛)を保証するための「空間政治学」の一環であった。
•精神的安定と定着化政策
天正十八年(1590年)の関東移封に伴い、父祖の地である近江国を離散させられた甲賀衆にとって、旧領の信仰基盤(高徳寺)を江戸の拝領地へそのまま「空間移動」させることは、精神的動揺を鎮禦するための不可欠な措置であった。
•軍事・防衛の空間的配置
高徳寺が建立された赤坂青山北町は、甲賀百人組の組屋敷が集中する「青山百人町(現・神宮球場・表参道周辺)」や千駄ヶ谷に隣接する。これは単なる宗教施設の配置ではなく、江戸城西方の外郭防衛線を担う甲賀武士団の居住区(組屋敷)と信仰空間(寺院)を一体化させ、職能的結合を補強するための空間政策であった。

2. 開基家・遠藤宗家の由緒と「精忠」の記憶装置
高徳寺における遠藤宗家の開基由緒は、単なる一族の先祖供養の域を超え、德川将軍家に対する「絶対的忠誠(精忠)」の記憶を世代を超えて保存・顕彰するための「制度的装置」として機能した。
•権威の表象としての「葵紋」付帯特権
德川権力の全面的な経済的・政治的援助によって造営された高徳寺は、三千余坪の境内を誇り、本堂の瓦葺屋棟には金色の德川将軍家「葵章」の付帯が許された。一介の与力・同心集団の菩提寺としては破格の待遇であり、開基家である遠藤宗家が德川家から獲得していた紐帯の強固さを視覚的に表象している。
•伏見城殉死の集合的記憶の保存
高徳寺過去帳(第一巻)には、慶長五年(1600年)の伏見城籠城戦において鳥居元忠らとともに玉砕した始祖・遠藤左太夫ら「討死した者七十名」の合祀が記録されている。この記録は、幕藩体制下において「我らは德川将軍家のために命を捧げた一族である」という集合的記憶を世襲的に再生産し、主従関係を不可逆的なものへと固定化する機能を担った。
•世襲的統摂者としての機能
この歴史的結合により、遠藤宗家は近代以降(明治・大正期)に至るまで、第十五代当主・遠藤榮(大正天皇侍従)らが代々高徳寺の檀家総代、および隣接する甲賀稲荷神社の氏子大惣代を歴任した。これは、武士道精神の継承と甲賀組末裔の組織的・精神的統摂者としての地位が、近代の家制度下においてもなお維持されていたことを示している。

3. 幕藩体制下の本末制度と経済的包摂
高徳寺の近世における存続基盤は、幕府の寺社政策(本末制度)および経済的知行体系の中に完全に構造化されていた。
•本末制度による官僚的統制
嘉永二年(1849年)の『德川幕府寺社奉行』の記録が示す通り、高徳寺は「浄土宗京都知恩院末」として公式に登録されていた。これは、幕府の地方統治・イデオロギー管理の基軸であった本末制度・宗門改のネットワークに高徳寺が組み込まれ、その中で遠藤宗家が開基家としての公的地位を保証されていたことを意味する。
•給地(年貢地)移譲にみる経済的連動
同記録には、かつて甲賀組が幕府から宛行われた「原宿村の年貢地」が、幕末期には「高徳寺の年貢地」へと転換(移譲)されていた実態が記述されている。武士団の経済的基盤(知行・給地)の一部を、彼らの精神的支柱である寺院の維持費として制度的に環流させるこの仕組みは、「德川権力-甲賀武士団(遠藤宗家)-高徳寺」という三位一体の強固な包摂関係を実証している。

赤坂青山北町への高徳寺建立と遠藤宗家の開基由緒は、織豊期から近世への過渡期における德川権力の宗教・空間政策の特質を鮮明に体現している。近江の「郷村信仰」は、江戸という「都市の軍事・防衛空間」へトランスレートされることで、幕藩体制を補強するイデオロギー装置へと昇華した。金色の葵紋、伏見城殉死者の過去帳、そして原宿村の年貢地という実証的物証は、遠藤宗家を核とする武士団が、高徳寺という宗教空間を媒介にすることで、德川将軍家との間に「世襲的官僚制」と「絶対的精神的帰依」を高度に融合させた、緊密な主従結合を完成させていたことを物語っている。