遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

武蔵国豊島郡上石神井村・栗原家の歴史的功績

2026年08月04日
近世から近代にかけて武蔵国豊島郡上石神井村(のちの北豊島郡石神井村、現・東京都練馬区石神井エリア)の在郷有力者(名主・地主・町村長)であった栗原家は、伝統的支配階層としての社会資本を「公共インフラの構築」へと還元し、純農村から郊外住宅地への都市構造転換を主導した。その近代化の足跡と歴史的遺産は、遠藤宗家第十八代・遠藤潔へと継承されている。

1.近世(江戸期):村政統治と共同体信仰の主導
江戸期の上石神井村における栗原家は、村政の最高責任者である「名主」を代々世襲し、領主(幕府代官または旗本)と村帳百姓の結節点として機能した。その統治機能は単なる年貢徴収にとどまらず、德川幕府の広域行政との高度な政治交渉や、地縁・血縁を内包した民間信仰の組織化に及んでいた。

【近世平地農村の構造化:栗原 倉左衛門】
•活動期:17世紀末〜18世紀初頭(元禄年間)

•庚申信仰・地縁組織の組織化
旧石神井村エリアに遺される石仏銘文(石碑資料)の分析から、栗原家が地縁的な信仰集団(庚申講)の経済的・精神的代表者であったことが実証される。元禄十二年(1699年)、近隣の複数村(下石神井村、道場寺村、上石神井大門村など)の住民組織を包含する形で、古刹・三宝寺の境内に庚申塔が建立された際、栗原倉左衛門は「願主(発起人代表)」としてその石碑に刻銘された。これは、宗派を越えた近世農村の広域的な階層秩序の頂点に彼が位置していたことを示している。
また、元禄四年(1691年)の『路傍の庚申塔』(現・野草観察園裏)における分析では、17人の結衆(寄進者)のうち「栗原姓」が4名を占めており、当主・倉左衛門を中心とする本家・分家(一族割・新田開発)のネットワークが、周辺の開墾地における民間信仰を紐帯として地域を統合していた構造が窺える。栗原家は同寺の檀家総代を代々世襲し、村落の精神的・地縁的結合の要であり続けた。

幕末・天保期の村政管理と広域ネゴシエーション
•助郷負担への抵抗と村落防衛
德川幕府の衰退期に伴う過酷な広域行政負担に対し、当時の当主は村落共同体の経済的破綻を防ぐ防波堤として機能した。天保二年(1831年)の『議定一札之事(板橋宿代助郷御免除相願度ニ付)』にみられるように、中山道・板橋宿から課された「代助郷(過重な人馬拠出義務)」に対し、周辺村落の役人と共闘して免除嘆願交渉を主導。一村の枠を越えた統率力を発揮した。

2.近代移行期(幕末〜明治期):産業資本への転換と殖産興業
明治維新による地租改正と名主制の廃止という政治的・法制度的断絶に直面した栗原家は、蓄積された土地資本を基盤として「豪農・大地主」へと脱皮し、さらに産業資本家への転換(在郷資本の形成)を果たすことで地域の経済的自立を維持した。

【危機管理と資本転換の始祖:栗原 仲右衛門】
•活動期:幕末〜明治中期

•幕末の動乱と旧幕府諸隊「信忠隊」の止宿
慶応四年(1868年)5月、彰義隊の結成など江戸周辺の情勢が緊迫化する中、德川家復興を掲げる旧幕府諸隊の一つ「信忠隊」が上石神井村に現れ、三宝寺に止宿(宿泊)した。信忠隊の会計掛などから突きつけられた過酷な軍資金(御用金)要求や物資調達に対し、当主・栗原仲右衛門は名主として近隣村落の役人と緊密に合議を重ね、金策と粘り強い交渉を主導した。これにより、上野戦争前後の無政府状態における戦火や略奪から地域共同体を死守し、治安と経済の破綻を防いだ(『栗原家文書』内「信忠隊三宝寺江止宿諸入用覚帳」)。この戦時調停力こそが、近世名主から近代地主・名望家へと社会的威信を継承できた決定的な要因である。

•栗原家長屋門の建築
仲右衛門は明治初期、現在の石神井台一丁目に「栗原家長屋門」を建築した。これは桁行7間・梁間2間の入母屋造りであり、軒を深く突き出した「せがい造り」と呼ばれる建築様式を採用している。この意匠は、近世名主の特権的格式(威信材)を明治期へ継承・誇示した構造物として、建築史的にも高く評価され、現在の歴史散策ルートの象徴となっている。

•明治期の殖産興業―器械製糸所「興就社」の設立
明治十二年(1879年)3月、栗原仲右衛門は本橋勝右衛門らと協同し、上石神井村に資本金一万円(当時としては区内最大級の民営資本)で器械製糸所「興就社」を創業した。内務省勧工寮葵町製糸場のイタリア式繰糸器械(50人繰)を模倣導入し、熟練工女を招聘。生産された上質な生糸は横浜から欧米へ輸出され、武蔵野台地における養蚕・製糸業発展の嚆矢となった。これは中央の近代化政策を地域へと技術移転し、一農村を直接的に近代世界経済のシステムへと接続させた先進的な試みであった。

3.近代(大正〜昭和初期):都市計画とインフラ整備
第一次世界大戦後の東京の人口膨張を背景に、栗原家は地主から「近郊都市の政治的・空間的デザイナー」へと転換を遂げた。その中心となったのが、自治体首長として近代的な都市計画を牽引した名村長である。

【都市計画・インフラ主導型政治家:栗原 鉚三】
•活動期:大正五年(1916年)〜昭和七年(1932年)

•武蔵野鉄道の駅誘致と土地拠出
大正四年(1915年)の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)石神井駅(現・石神井公園駅)開業に際し、駅設置の条件として駅前周辺の私有地5,000坪余りを無償寄付し、交通結節点を形成した。これにより、純農村であった同地は「東京の近郊住宅地・行楽地」としての開発軌道に乗ることとなった。大正九年(1920年)には駅前にその功績を伝える「石神井火車站之碑」が建立された。

•石神井郵便局の創設
下石神井の自宅に三等郵便局(現・石神井郵便局)を誘致・創設し、自ら初代郵便局長に就任した。人・物の流動(鉄道)に続き、情報・金融の流動(郵便・電信)の結節点を集約させることで、近代情報通信ネットワークを村内に確立し、地域の中心地としての地位を決定づけた。

•富士街道の整備と文化財保存
大正十四年(1925年)に「一里塚改築記念碑」を建立。道路拡幅というモータリゼーションへの対応(近代化)を推し進める一方で、街道沿いの歴史的庚申塔や一里塚を地元の溶岩台座で保護し、「開発と歴史保存の両立」を実践した先駆的事例である。

•風致地区指定と石神井池(ボート池)の造成
元々は低湿地の水田地帯(通称・お千代田)であった場所を、乱開発から守るため景勝レクリエーション空間として整備する計画を策定。東京府への請願を経て大規模な親水工事を主導し、風致地区指定の理念を具現化する形で昭和八年(1933年)に「石神井池(通称・ボート池)」を完成させた。これにより、天然の三宝寺池の自然景観と融和した「東京府立石神井公園」の誕生を決定づけ、今日の風致地区・高級住宅地としての環境ブランドを無から創出した。

4.現代:歴史的血脈の帰結と遠藤宗家第十八代・遠藤潔への継承
近代都市・石神井のグランドデザインを描いた栗原家の血脈、および数々の有形・無形の歴史的社会資本は、戦中・戦後の動乱期を経て現代に守り伝えられ、德川幕府直参旗本の系譜を引く遠藤宗家へと合流・収斂している。

【激動期の資産管理と保全:栗原 正雄】
•活動期:昭和初期〜中期

•歴史的位置づけ
戦前・戦後の激動期、および農地改革(自作農創設特別措置法)などの所有権解体リスクに直面しながらも、風致地区や都市計画緑地(現在の石神井公園周辺の住環境)のグランドデザインを維持。地主一族として代々所有してきた広大な石神井の土地や、家に伝わる歴史的財産の滅失を防ぐ保全活動に尽力した。

【歴史資産の社会的還元:栗原 秀雄】
•活動期:昭和後期〜現代(イケブチ社長)

•歴史的位置づけ
私的領有資産のパブリック・ドメイン(公共財)化と文化的継承。代々家系に継承されてきた江戸時代からの検地帳や村政運営記録、戊辰戦争期の史料(『信忠隊三宝寺江止宿諸入用覚帳』など)を含む一連の一次史料群(全52点)を自治体(練馬区)へ寄贈・委託。現在は練馬区指定有形文化財(古文書)「栗原家文書」として[石神井公園ふるさと文化館]に所蔵され、歴史科学における貴重な史料として広く学術界・市民に開放されている。

【直系子孫・歴史的血脈の正統継承:遠藤宗家第十八代・遠藤潔】
•現代における位置づけ
遠藤宗家第十八代・遠藤潔にとって、近代石神井の都市基盤を築いた石神井村長・栗原鉚三は「曾祖父」にあたる。これは、江戸期の伝統的特権階級であった「旗本(武家文化・知性)」の血統と、「名主・地主(在郷資本・実務権力)」の経済的・政治的血統が、近代における通婚によって構造的に統合・再編された実例である。旧家の知性と資本が結びつくことで、歴史資産が散逸することなく、現代における社会的・文化的正統性をもって維持される基盤となった。

栗原家の歴史的足跡は、日本の地方社会が「封建的農村(倉左衛門の時代)」から「近代産業の興隆(仲右衛門の時代)」、そして「大都市近郊の近代都市・住宅地(鉚三の時代)」へと変貌していくプロセスの縮図である。

特に、先祖から受け継いだ広大な土地や社会権力を、私利私欲のためではなく、鉄道・通信・公園といった「公共インフラ」へと還元した栗原鉚三村長のグランドデザインは、現在の練馬区石神井の都市構造と豊かな住環境を決定づける決定的なレガシー(空間化された遺産)となった。

そして、近世・近代を生き抜いた旧家の歴史と精神が散逸することなく、遠藤宗家第十八代・遠藤潔へと血脈的・文化的に正統継承されている事実は、現代における地域史の保存・顕彰の重要性を証明する極めて貴重な事例である。