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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
遠藤宗家における拝領地の変遷と明治神宮外苑『御観兵榎』
2026年08月10日
遠藤宗家と御観兵榎の歴史的紐帯は、近世幕藩体制から近代国家への移行期における「土地の歴史的変遷」および「一族の役割の変遷」に起因する。すなわち、江戸期における甲賀百人組の青山権田原御鉄砲場(鉄砲演習場)が、明治期に陸軍青山練兵場(現在の明治神宮外苑)へと接収・改変され、その中心地に「御観兵榎」が位置していたという、空間の同一性と歴史の連続性がその核心である。
1. 歴史的・空間的背景:青山権田原のトポグラフィ
江戸幕府の軍事組織において、德川家康公の関東入国の天正十八年(1590年)および幕府開府後、江戸城の防御および将軍行幸時の警護を担う親衛隊として「鉄砲百人組」が編成された。その一つである「甲賀組」に、遠藤宗家の始祖・遠藤左太夫が所属していた。
•德川幕府からの拝領地と軍事拠点
甲賀組は千駄ヶ谷に組屋敷(現在の国立競技場周辺)を拝領するとともに、青山権田原(現在の明治神宮外苑周辺)に広大な「鉄砲演習場(御鉄砲場)」を拝領した。この一帯は「青山甲賀町」とも呼ばれ、遠藤宗家をはじめとする甲賀武士たちが日常的に火技・武芸の鍛錬を行う軍事拠点であった。
•文化的・宗教的空間の創出
遠藤宗家らはこの演習場内に守護神として「甲賀稲荷神社」を建立した。弘化四年(1847年)の史料等からも、遠藤宗家が百人組を代表して同社の維持・寄進管理を行う統摂的・中核的立場にあったことが実証されている。
2.明治維新と空間の連続性:御鉄砲場から青山練兵場へ
慶応四年(1868年)の明治維新に伴い、德川幕府の直轄地や武家地は新政府によって接収された。青山権田原の甲賀組拝領地(御鉄砲場)も例外ではなく、明治新政府によって陸軍の軍事演習場である「青山練兵場」へと転用された。
•近代軍事空間への変容
江戸時代の「鉄砲演習場」という軍事的な土地利用の文脈が、明治期の「陸軍練兵場」という近代軍事空間へ、空間的な連続性を持って引き継がれた点が重要である。
•神社の遷座
明治十八年(1885年)、青山練兵場の拡張・設置に伴い、遠藤宗家らが護持してきた演習場内の甲賀稲荷神社は、近隣の鳩森八幡神社(渋谷区千駄ヶ谷)の境内へと遷座・合祀されることとなった。
3.「御観兵榎」の誕生と遠藤宗家旧地における機能
青山練兵場は、単なる陸軍の訓練場にとどまらず、明治天皇が臨席する国家的な軍事儀礼(観兵式)の場として重用された。
•御座所の固定と名木の誕生
明治二十二年(1889年)の憲法発布観兵式や、明治三十九年(1906年)の日露戦役凱旋観兵式など、国家的象徴となる大規模な式典が挙行された際、明治天皇の御座所(御席)は常に、この地に一本そびえ立っていた榎の大木の西側に設営された。この歴史的事実に基づき、当該樹木は「御観兵榎」と命名され、聖蹟(国家的記念物)として永く保存されることとなった。
•学術的な位置関係
この「御観兵榎」が根を張っていた場所こそが、まさに幕政期に遠藤宗家ら甲賀百人組が日々火縄銃や大砲の射撃訓練を行っていた演習場(御鉄砲場)の敷地そのものである。德川幕府の最高峰の火器技術を保持していた武士たちの鍛錬の場が、近代国家における「天皇(大元帥)による軍隊の統閲空間」へと昇華した、その中心に榎が存在していたのである。
土地の歴史が德川幕府の軍事空間から近代の宮廷・国家空間へと移行する中、遠藤宗家の一族自身もまた、その役割を近代的に変容させていった。国学や武芸に秀でていた遠藤宗家は、幕末の第十四代・遠藤市次郎(講武所奉行大砲組)を経て、明治・大正期には第十五代当主・遠藤榮(大正天皇侍従、宮内庁)を輩出している。德川将軍を警護した旗本一族が、近代には宮内省(現・宮内庁)の官僚として皇室を支える側に回ったという歴史的経緯は、拝領地(権田原)が明治天皇の聖蹟(神宮外苑・御観兵榎)へと変遷していった象徴的な歩みと同調していると言える。
なお、初代の「御観兵榎」(樹齢200余年)は平成七年(1995年)の台風により倒木したが、翌平成八年(1996年)にその自然実生木が明治神宮外苑内(聖徳記念絵画館の南東側)に移植され、現在は「二代目御観兵榎」として、往時の歴史を今に伝える石碑とともに現存している。
1. 歴史的・空間的背景:青山権田原のトポグラフィ
江戸幕府の軍事組織において、德川家康公の関東入国の天正十八年(1590年)および幕府開府後、江戸城の防御および将軍行幸時の警護を担う親衛隊として「鉄砲百人組」が編成された。その一つである「甲賀組」に、遠藤宗家の始祖・遠藤左太夫が所属していた。
•德川幕府からの拝領地と軍事拠点
甲賀組は千駄ヶ谷に組屋敷(現在の国立競技場周辺)を拝領するとともに、青山権田原(現在の明治神宮外苑周辺)に広大な「鉄砲演習場(御鉄砲場)」を拝領した。この一帯は「青山甲賀町」とも呼ばれ、遠藤宗家をはじめとする甲賀武士たちが日常的に火技・武芸の鍛錬を行う軍事拠点であった。
•文化的・宗教的空間の創出
遠藤宗家らはこの演習場内に守護神として「甲賀稲荷神社」を建立した。弘化四年(1847年)の史料等からも、遠藤宗家が百人組を代表して同社の維持・寄進管理を行う統摂的・中核的立場にあったことが実証されている。
2.明治維新と空間の連続性:御鉄砲場から青山練兵場へ
慶応四年(1868年)の明治維新に伴い、德川幕府の直轄地や武家地は新政府によって接収された。青山権田原の甲賀組拝領地(御鉄砲場)も例外ではなく、明治新政府によって陸軍の軍事演習場である「青山練兵場」へと転用された。
•近代軍事空間への変容
江戸時代の「鉄砲演習場」という軍事的な土地利用の文脈が、明治期の「陸軍練兵場」という近代軍事空間へ、空間的な連続性を持って引き継がれた点が重要である。
•神社の遷座
明治十八年(1885年)、青山練兵場の拡張・設置に伴い、遠藤宗家らが護持してきた演習場内の甲賀稲荷神社は、近隣の鳩森八幡神社(渋谷区千駄ヶ谷)の境内へと遷座・合祀されることとなった。
3.「御観兵榎」の誕生と遠藤宗家旧地における機能
青山練兵場は、単なる陸軍の訓練場にとどまらず、明治天皇が臨席する国家的な軍事儀礼(観兵式)の場として重用された。
•御座所の固定と名木の誕生
明治二十二年(1889年)の憲法発布観兵式や、明治三十九年(1906年)の日露戦役凱旋観兵式など、国家的象徴となる大規模な式典が挙行された際、明治天皇の御座所(御席)は常に、この地に一本そびえ立っていた榎の大木の西側に設営された。この歴史的事実に基づき、当該樹木は「御観兵榎」と命名され、聖蹟(国家的記念物)として永く保存されることとなった。
•学術的な位置関係
この「御観兵榎」が根を張っていた場所こそが、まさに幕政期に遠藤宗家ら甲賀百人組が日々火縄銃や大砲の射撃訓練を行っていた演習場(御鉄砲場)の敷地そのものである。德川幕府の最高峰の火器技術を保持していた武士たちの鍛錬の場が、近代国家における「天皇(大元帥)による軍隊の統閲空間」へと昇華した、その中心に榎が存在していたのである。
土地の歴史が德川幕府の軍事空間から近代の宮廷・国家空間へと移行する中、遠藤宗家の一族自身もまた、その役割を近代的に変容させていった。国学や武芸に秀でていた遠藤宗家は、幕末の第十四代・遠藤市次郎(講武所奉行大砲組)を経て、明治・大正期には第十五代当主・遠藤榮(大正天皇侍従、宮内庁)を輩出している。德川将軍を警護した旗本一族が、近代には宮内省(現・宮内庁)の官僚として皇室を支える側に回ったという歴史的経緯は、拝領地(権田原)が明治天皇の聖蹟(神宮外苑・御観兵榎)へと変遷していった象徴的な歩みと同調していると言える。
なお、初代の「御観兵榎」(樹齢200余年)は平成七年(1995年)の台風により倒木したが、翌平成八年(1996年)にその自然実生木が明治神宮外苑内(聖徳記念絵画館の南東側)に移植され、現在は「二代目御観兵榎」として、往時の歴史を今に伝える石碑とともに現存している。