遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

大本山増上寺と遠藤宗家の歴史的・宗教学的関連性

2026年08月11日
江戸幕府の德川将軍家菩提寺である浄土宗大本山「増上寺」(東京都港区芝公園)と、德川幕府直参の旗本であり甲賀百人同心の系譜を引く「遠藤宗家」との歴史的、宗教学的関連性について、幕府編纂史料および寺社・家系固有の記録に依拠しながら客観的に考察する。

1. 幕府公認史料にみる遠藤宗家の位相と増上寺との公的紐帯
近世武家社会における遠藤宗家の位置づけは、江戸幕府が編纂した大名・旗本の正統な系譜集である『寛政重修諸家譜』巻第1412(甲賀組諸士の連名・由緒記録)にその祖伝を見出すことができる。始祖である遠藤左太夫は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦「伏見城の戦い」において、鳥居元忠らとともに伏見城(名古屋丸)を死守し討ち死にした甲賀衆の一員であり、その忠義と軍功によって、のちに子孫が德川家康公から直参旗本(甲賀百人組)に列せられた。天正十八年(1590年)の德川家康公の江戸入府に伴い德川家菩提寺となった増上寺が、德川幕府の宗教政策の最高位(触頭・総録所)として江戸の「文治(宗教的権威)」を象徴したのに対し、一次史料である『寛政重修諸家譜』巻第1412にその結成と軍功が克明に刻まれた德川幕府直参旗本の遠藤宗家は、江戸城大手三門の警備や鉄砲演習の任にあたる「武威(治安維持)」の体現者であった。この両者は、德川将軍家への忠誠を枢軸とする幕藩体制の構造において、公的に分かち難く結びついていた。

2. 寺社奉行記録および諸規程にみる高徳寺を媒介とした教学・寺務的交流
高徳寺(現・東京都港区北青山)は、天正十八年(1590年)の德川家康公の江戸入府に際し、德川家康公の直接の命を受けた遠藤宗家をはじめとする甲賀組が「開基家」となり、在地(近江国甲賀郡)において信仰していた浄土宗寺院を江戸(赤坂青山北町)へと移転・建立させたことに端を発する。開山(初代住職)には晃誉上人無的(または居的)を迎えた。近世の『寺社奉行記録』や各宗派の『府内寺社備考』等の公認史料に拠れば、当寺は江戸幕府の直参旗本である遠藤宗家の香火所(菩提寺)として機能していた。特に制度史・近世仏教史における重要な学術的論点として、高徳寺の歴代住職(淳澄、源流、隆察など)に、浄土宗の最高学府である檀林(増上寺や小石川伝通院など)で教学を修めた高僧が複数晋山(着任)している事実が挙げられる。これは、德川幕府の宗教統制下において、本山たる増上寺の有する高度な仏教教学および人材輩出システムが、寺社奉行の管轄と承認のもとで、直参旗本である甲賀百人組の社会的格式の維持と密接に連動していたことを示すものである。すなわち、德川幕府の権力構造、本末制度、そして旗本の知行地・香火所管理が三位一体となって機能していた「制度的連環」の好例といえる。近代以降の変革期においても、大正天皇侍従を務めた遠藤宗家第十五代当主・遠藤榮らが檀家総代を世襲し、本山と末寺、および開基家との歴史的紐帯は現代に至るまで強古に維持・継承されている。

3. 現代における文化財保護と「開宗八百五十年」記念事業の史的意義
近代の廃仏毀釈や第二次世界大戦の戦災、さらに高度経済成長期を経てなお、この近世に培われた紐帯は「文化遺産の護持・継承」という現代的価値へ止揚されている。とりわけ、浄土宗開宗八百五十年という宗教史的な節目に際し、増上寺が推進した国重要文化財「三解脱門」の解体大修理を含む記念事業において、遠藤宗家第十八代・遠藤潔による社会的・財政的寄与が行われた。この護持発展への功績に対し、大本山増上寺より法主台下名の「法主感謝状」が授与された事績は、単なる私的な寄付行為にとどまらず、公的史料(『寛政重修諸家譜』等)に遡る将軍・菩提寺・旗本の三者関係が、現代の伝統文化保護活動の中に正統に継承されていることを実証する歴史的事象といえる。

以上の通り、増上寺と遠藤宗家の関係は、一過性の私的帰依関係にとどまるものではない。それは、近世幕藩体制における公的史料(『寛政重修諸家譜』)に記された主従・警護の縁に始まり、寺社奉行の統制下における教学の交流(高徳寺を媒介とする本末関係)を経て、現代の「開宗八百五十年」記念事業における文化財保護へと通底する、多層的かつ継続的な相補関係として位置づけられる。