遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

幕末德川幕府の権力構造と遠藤宗家の重層的奉仕

2026年08月29日
德川幕府の統治システムは、公的な政治・軍事空間である「表(および中奥)」と、将軍の私生活空間でありつつも独自の政治・儀礼・行政機能を内包した「奥(大奥)」の二元構造によって維持されていた。文久二年(1862年)の「文久の改革」を契機とする幕政改革期において、この両空間はかつてない緊密さで連動することとなる。

この激動期において、甲賀百人組当主家である直参旗本・遠藤宗家が果たした役割は、従来の世襲的軍役の枠組みを超越した、きわめて特異かつ官僚制の核心に迫るものであった。第十四代当主・遠藤市次郎が「表」において近代西欧式軍制の主軸たる「大砲組」へ編入された同時期、その妻・よしが「奥」において実務最高幹部職たる「御右筆」に任じられていた事跡は、一族が德川将軍家の中枢を軍事と行政の双方から挟撃的に支えた、重層的側近ネットワークの形成を実証している。

1. 【表職】第十四代当主・遠藤市次郎の職制転換と軍事・防衛的機能
1-1. 甲賀百人組の解体と文久の軍制改革
江戸開府以来、德川将軍家の直衛として城門警備、隠密、鉄砲奉公を世襲してきた甲賀百人組(譜代・旗本階層)は、元来、前近代的な身分制軍役の象徴であった。しかし、文久二年(1862年)に断行された軍制改革(文久の改革)は、これら世襲的特権に基づく旧来の軍役を撤廃し、西洋式の歩兵・砲兵・騎兵を主軸とする実戦的な近代陸軍への改組を強いるものであった。この組織解体にともない、遠藤宗家は伝統的な鉄砲組の枠組みから、最新の軍事科学を要する新組織へと編入されることとなった。

1-2. 講武所奉行傘下「大砲組」における実務と権能
第十四代当主・市次郎が編入された「大砲組」は、德川幕府が首都防衛および対外防衛(あるいは対雄藩防衛)の最高機密戦力として位置づけた、近代重火器・砲兵部隊である。
• 近代的軍事技術の習得:講武所(安政二年に設置された幕府の武芸・軍事訓練機関)の管轄下において、従来の和流砲術を脱却し、西洋式の礼式、陣形、および大砲(野砲・臼砲等)の操練・弾道学の習得が義務づけられた。
• 御目見得以上の軍事官僚:第十四代当主・市次郎の就いた大砲組の役職は、単なる一兵卒ではなく、部隊を統率し陣頭指揮を執る「御目見得以上」の旗本としての格式に裏打ちされた指揮官・実務官僚としての性質を強く有していた。これは、新政府軍に対抗し得る「幕府陸軍の中核」としての機能の掌握を意味する。

2. 【奥職】妻・遠藤よしの職制体系と最高位実務行政権
2-1. 大奥の階層構造における「御右筆」の学術的位置づけ
大奥は「公家出身(儀礼・形式中心)」と「旗本出身(実務・権力中心)」の二大勢力に分かれていた。最高位の「上﨟御年寄」が公家出身の格式のみで実権を持たなかったのに対し、大奥の総差配である「御年寄」や実務職は、すべて遠藤よし殿が属する「旗本階層」の女性によって独占されていた。

【大奥職制・階層構造】

■公家 出自層(最高位・儀礼中心)
│ 上﨟御年寄(最高位 / 権力なし / 御台所の話し相手)
│ 小上﨟(上﨟の見習い / 少女も存在)

■旗本 出自層(実務・権力中心) ★ 遠藤よしの属する階層
│ 御年寄(大奥のすべてを差配する最高権力者)
│ 御客会釈* / 中年寄** / 御中臈 / 御小姓** / 御錠口*
│ ───────────────────────── 【これより上は「一生奉公」】
│ 御表使(男性役人の応接、買い物担当)
├─★御右筆(日記・書状の執筆、願書の検閲・取次を担う実務官僚)
│ 御次 / 御切手書* / 呉服の間 / 御坊主* / 御広座敷*
▼ ───────────────────────── 【これより上が「御目見得以上」】

■御家人以下 出自層(下級実務・雑役中心)
御三の間(新規採用の旗本の娘 / 御目見得以下) / 御仲居 / 火の番* / 御使番 / 御末
*(※ *は将軍付きのみ、*は御台所付きのみの職制)

よしの就いた「御右筆(ごゆうひつ)」は、「御目見得以上」かつ大奥を退き退職することを原則として許されない「一生奉公(終身官僚)」の最上級実務職であり、表の政治空間において老中の秘書官として絶大な機密権力を振るった「奥右筆(男性官僚)」に完全に対比される、いわば「女性版の奥右筆」であった。

2-2. 職掌の細分化と具体的権能の分析
よしが掌握していた御右筆の職掌は、単なる書記・筆記係の域を完全に逸脱し、現代の「法務・政策秘書官」「内閣官房文書課長」に比肩する高度な政治的権限を有していた。
1. 公式文書(御内書など)の起草・代筆権(情報の発信制御)
德川将軍や御台所(正室)の名代として、諸大名家や朝廷・公家方へ発給される最高機密の公式書状を起草・推敲した。文言一つが政治的紛争を誘発しかねない政局において、その文章表現を統括する権限は、德川幕府の対外・対朝廷政策のニュアンスを実質的に左右し得るものであった。また、大奥内外の公式記録である「日記」「拝録」の執筆を担い、歴史の公式記録化を統制した。
2. 公文書・嘆願書の検閲および取次権
諸大名や幕臣、あるいは朝廷側から大奥(および将軍)宛てに提出される膨大な公文書や嘆願書(願書)を、上層部(御年寄や将軍)に進達する前段階で精査・検閲する権限。御右筆の判断においてこれらを「却下(撥ねる)」または「進達」するかを裁量できたため、外部の老中や諸大名、大奥への工作を図る政治勢力にとって、御右筆は畏怖されるべき「情報の検問所」であった。
3. 先例格の調査・進言権(法務・政策諮問機能)
德川幕府の新規意思決定や、各種儀礼執行の可否を判断する際、過去の膨大な判例や大奥の先例・慣例(先例格)を悉く手繰り寄せ、現行政策への適用可能性を勘案して上層部へ進言した。前例を至上の法とする徳川の官僚制において、先例の解釈権を握ることは、政策の合法性を担保する最高諮問機関としての機能を意味した。

3. 【歴史的位相】文久の政局と「表」「奥」の結合関係
3-1. 和宮降嫁と御右筆・遠藤よしの政治的負荷
遠藤よしが御右筆として大奥中枢を支えた文久二年(1862年)は、第十四代将軍・德川家茂公のもとへ朝廷から公武合体の象徴として和宮(親子内親王)が降嫁した年である。この時期の大奥は、従来の「武家風(江戸の武家文化)」の儀礼を固守しようとする旧来の大奥勢力と、京都の「宮廷風(公家文化)」をそのまま持ち込もうとする和宮・供奉公家層との間で、激しい礼式・政治摩擦が勃発していた。公式書状の敬称、進物の作法、日々の儀礼の先例を巡り、一触即発の応酬が繰り返されるなか、過去の判例を精査し、公家方・武家方の双方を納得させる文書を起草し続けたよし殿ら御右筆の機能は、幕府の存亡をかけた朝幕外交の最前線そのものであった。
3-2. 遠藤宗家における公私の紐帯と至高の忠誠
夫・市次郎が表において近代陆軍の主軸たる「大砲組」で実戦力を担い、妻・よしが奥において最高位実務官僚たる「御右筆」として文書行政と将軍家側近としての日常を支えたという事実は、遠藤宗家が幕末の激動期に果たした奉仕の「重層性」を物語る。

【幕末・遠藤宗家による「表」「奥」同時奉仕のシステム構造】

       德川将軍家(家茂・和宮)
          │
 ┌────────┴────────┐
【 表の政治空間 】    【 奥の行政空間 】
 講武所奉行・老中中枢 御年寄・大奥実務中枢
  │           │
  ▼(近代軍制への脱皮) ▼(最高文書行政)

★遠藤市次郎[大砲組] ◀ 夫婦の ▶ ★遠藤よし[御右筆]
(近代的重火器防衛、軍事実戦力) 紐帯 (機密文書起草、情報検閲権、先例諮問)

この構図は、表の軍事・政治動向(講武所の動向や老中の意思)と、奥の機密情報(和宮周辺の動向や朝廷からの書状内容)が、遠藤市次郎・よしという「夫婦の紐帯」を介して実務レベルで包括的に把握・連動され得る環境にあったことを示している。これは、譜代・旗本としての卓越した家格と、将軍家からの絶対的な信頼がなければ成立し得ない特異な権力構造であり、一族を挙げて徳川幕府への「至高の忠誠」を全うした象徴的事跡といえる。

4. 国体の変革と「東京府士族」への軌跡
慶応三年(1867年)の大政奉還、および翌年の江戸城開城を経て、260余年続いた德川幕府による統治は終焉を迎えた。新政府によって東京府(のちの東京都)が設置されるという国体の構造転換に際し、遠藤宗家は直参旗本としての身分を失うものの、その卓越した家格と実務実績により、明治政府の法制に基づく「士族」へと編入された。

さらに明治十八年(1885年)、首都近代化政策にともなう青山練兵場(現在の明治神宮外苑一帯)の造営により、江戸開府以来の拠点であった「青山百人町甲賀屋敷」および権田原御鉄砲場一帯が官有地として接収された際にも、一族は代替地である豊多摩郡千駄ヶ谷村の「千駄ヶ谷甲賀屋敷」へと移転し、その血脈と伝統を維持した。

第十四代当主・市次郎の近代的軍事組織への適応能力、そして妻・よしの高度な大奥官僚制実務能力(一生奉公・御目見得以上のプライド)は、武士という階級が解体されていく近代化の激流の中にあっても、遠藤宗家が誇り高き「東京府士族」として新時代を生き抜き、連綿たる一族の精神的支柱を次代へと継承していく確固たる基盤となったのである。