遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

明治維新と東京府誕生における直参旗本の士族転換

2026年09月01日
近世から近代への過渡期における最大級の社会構造変革は、武士階級という巨大な特権的軍事官僚層の解体(秩禄処分・藩閥政治への移行)である。江戸城百人番所を守護し、青山・千駄ヶ谷に広大な組屋敷を構えていた甲賀百人組(遠藤宗家など)は、幕末の政変、明治新政府による「東京府」の設置、そして四民平等政策によって、その身分・経済的基盤を根底から揺さぶられた。本稿は、彼らが直参旗本から「士族」へと編入される過程と、その居住地であった千駄ヶ谷一帯の空間的変容の実態を実証的に考察する。

1. 幕藩体制崩壊にみる主従関係の切断と「士族」への編入
慶応三年(1867年)の大政奉還から翌年の江戸開城にいたるプロセスは、遠藤宗家ら甲賀武士団と徳川将軍家との間に結ばれていた「約300年の絶対的・世襲的主従関係」を法的に切断するものであった。
• 德川家減封と直参武士の分断
維新後、德川宗家は駿河・遠江等(静岡藩)70万石の地方大名へと格下げされた。これにより、数万を数えた德川直参の多くは、旧主に従って静岡へ移住(都落ち)するか、新政府の支配する「東京府」に残留して帰農・帰商するかという過酷な選択を迫られた。遠藤宗家のように江戸(東京)に残り、近代の荒波に立ち向かう選択をした一族は、明治二年の版籍奉還、同五年の壬申戸籍編成を経て「士族」の籍に編入されることとなる。
• 秩禄処分にみる経済的特権の消滅
明治九年(1876年)の「秩禄処分」により、士族に支給されていた従来の家禄(俸禄)は完全に廃止され、一時金としての「金禄公債」へと換えられた。これにより、武功や殉死(伏見城戦など)の恩顧として世襲的に保証されていた遠藤宗家らの経済的基盤は完全に消滅し、士族としての社会的格付けだけを残した状態で、近代資本主義の市場競争へと放り出されることとなった。

2. 東京府誕生と千駄ヶ谷・青山百人町の地縁解体
明治元年(1868年)、新政府は「江戸」を「東京」と改称し、首都行政を統括する「東京府」を設置した。この行政機構の近代化は、甲賀百人組の拠り所であった青山・千駄ヶ谷の空間的性格をドラスティックに変容させた。
• 組屋敷の公収と地縁の融解
近世の青山百人町や千駄ヶ谷の組屋敷は、幕府から職能(軍事)の代償として「拝領」していた土地であり、個人の私有財産ではなかった。東京府の誕生にともない、これらの広大な武家地は新政府によって一斉に公収(没収)された。これにより、伏見城の遺族という「血縁」を基盤に、青山・千駄ヶ谷に形成されていた甲賀衆の「近世的地縁(共同体)」は、物理的・空間的に解体・融解を余儀なくされた。
• 桑畑・茶園への転換と士族授産
公収された広大な組屋敷跡や将軍の御猟場であった千駄ヶ谷の野山は、明治初期、東京府の勧業政策(士族授産)の一環として、急速に「桑畑」や「茶園」へと開墾された。戦う職能を奪われた士族たちは、昨日までの軍事要塞・居住空間であった土地で、慣れない農業(養蚕業など)を営むことで生計を立てようとした。千駄ヶ谷の景観は、武威の空間から「近代の農業・生産空間」へと一変したのである。

3. 近代都市空間への離陸と「高徳寺」にみる地縁の継承
明治中期以降、甲武鉄道(現・JR中央線)の開通や軍施設の配置により、千駄ヶ谷・青山地区は近代東京の主要な都市空間へと昇華していく。その激変のなかで、遠藤宗家らは「高徳寺」を媒介に精神的紐帯を維持し続けた。
• 文教・軍事都市への再編(青山練兵場から明治神宮外苑へ)
明治二十年代以降、千駄ヶ谷に隣接する青山権田原一帯は「青山練兵場(陸軍の演習場)」へと整備され、近世の防衛線としての記憶が近代軍事空間へとトランスレートされた。この練兵場は、明治天皇の崩御後に「明治神宮外苑(聖徳記念絵画館・競技場群)」へと再開発され、現在の神宮球場や国立競技場といった一大文教・スポーツ空間へと結実する。
• 近代における遠藤宗家と高徳寺の機能
空間が近代的に再編され、一族の居住地が霧散していったなかにあっても、遠藤宗家が開基した赤坂青山北町の「高徳寺」は、士族となった甲賀衆末裔たちの「精神的結節点」であり続けた。明治から大正期にかけ、宮内庁大正天皇侍従を務めた第十五代当主・遠藤榮らが、一族を代表して高徳寺の檀家総代、および近隣の甲賀稲荷神社氏子大惣代を歴任したことは極めて象徴的である。身分制と拝領地(空間)が失われた近代において、彼らは「宗教空間(寺社)」と「過去帳の記憶」を死守することにより、かつて德川将軍家に命を捧げた旗本・同心集団としてのアイデンティティと世襲的紐帯を、近代士族の精神的矜持として維持・継承し続けたのである。

明治維新と東京府の誕生にみる遠藤宗家の歴史的軌跡は、近世直参旗本・同心層が近代の荒波のなかで経験した「身分の止揚」と「空間の再編」の構造を鮮明に描き出している。300年続いた德川家との緊密な主従関係は、秩禄処分という法政的断行によって解体され、甲賀武士団は「士族」という名目的な身分呼称を残して資本主義社会へと適応せねばならなかった。また、彼らの軍事拠点であった青山百人町や千駄ヶ谷の組屋敷は、東京府による公収、桑畑への開墾、そして明治神宮外苑という近代都市空間へと不連続な連続性をもって変容を遂げた。

しかし、これほどの劇的な解体の中にあっても、遠藤宗家が高徳寺や甲賀稲荷神社の祭祀(総代職)を通じて旧絆を近代まで繋ぎ止めた事実は、近世的な「精忠の記憶」が、身分や土地の剥奪を超えて機能し続けた強固な精神的紐帯であったことを何よりも実証しているのである。