遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

日光東照宮三百年祭奉斎会と渋沢栄一の奉賛

2026年09月01日
近代国家の形成期において、旧政権の支配正統性や象徴的権威は、新政府による弾圧や忘却を経て、しばしばナショナルな記憶の再統合の文脈において「再評価・神聖化」される。

大正二年(1913年)から大正五年(1916年)にかけて活動した「日光東照宮三百年祭奉斎会」は、德川家康公の没後三百年大祭を契機として組織された。本組織は、旧幕臣のアイデンティティを保持し続けた実業界の巨頭・渋沢栄一を動向の結節点とし、遠藤宗家ら旧直参旗本層の階層的紐帯が交錯する近代的ネットワークとして機能した。この顕彰運動が単なる旧主への「懐旧」を超え、いかにして近代日本の統治イデオロギーおよび都市・資本ネットワークと接合されたかを実証的に考察する。

1. 奉斎会の組織構造と渋沢栄一による「顕彰の資本主義化」
大正二年に発足した日光東照宮三百年祭奉斎会は、元外相の林董(旧幕臣・佐倉藩出身)の急逝に伴い、同年9月に渋沢栄一が第二代会長に就任したことで、近代的なフィランソロピー(社会貢献事業)および文化財保存の性格を強く帯びる組織へと変容した。
• 旧直参としての倫理的負債と「道徳経済合一説」の応用
最後の将軍・德川慶喜公の直臣であった渋沢栄一にとって、德川家康公の顕彰は自身の精神的ルーツへの報恩であると同時に、彼が提唱した「道徳経済合一説(論語と算盤)」の具現化であった。渋沢は、上野寛永寺や川越喜多院、日光東照宮などの德川ゆかりの諸寺社での遠忌法要に精力的に参列・周旋した]。これは、前近代の「主従関係」を、近代的な「社会格付けの維持と公益活動」へと置換(トランスレート)する試みであった。
• 文化財保存を通じた資本と権威の結合
渋沢が指揮した宝物陳列館の建設や防災・防火設備の敷設は、東照宮という宗教空間を「近代国家の記念碑的遺産」へと純化する空間政治学であった。渋沢は、政財界、旧大名華族、旧幕臣層から巨額の寄付金を募ることで、前近代の「恩顧・知行関係」に代わる、資本を媒介とした「近代的エリート・ネットワーク」を構築した。

2. 遠藤宗家と旧直参(千駄ヶ谷・青山地縁)の精神的・組織的連動
渋沢主導の奉斎会が創出した巨大な磁場に対し、江戸城百人番所の防衛を世襲し、千駄ヶ谷・青山百人町に強固な地縁を有していた遠藤宗家(第十五代当主・遠藤榮ら)をはじめとする甲賀武士団の末裔は、固有の「精忠」の記憶をもって合流した。
• 空間再編におけるエリートの交錯
明治維新にともなう組屋敷の没収(地縁解体)以降も、遠藤宗家は赤坂青山北町の「高徳寺」や「甲賀稲荷神社」の祭祀(檀家総代・氏子大惣代)を通じて、甲賀組末裔の精神的統摂者としての地位を維持していた。
この青山・千駄ヶ谷一帯は、渋沢栄一が民間副総裁として深く関与し[明治神宮外苑(旧青山練兵場)の造営事業や近代インフラ(鉄道網)の敷設によって、近代東京の中核的な文教・記念空間へと再編されつつあった。この都市空間の再編プロセスと東照宮顕彰のネットワークが重なり合うことで、旧幕臣の巨頭(渋沢)と直参旗本の本流(遠藤宗家)は、大正期において構造的な再結合を果たした。
• 「精忠」の近代的トランスレートと宮廷奉仕
遠藤宗家にとって、伏見城籠城戦における始祖・遠藤左太夫らの殉死や、百人番所での不眠不休の守護という記憶は、高徳寺の「過去帳」に刻まれた絶対的なアイデンティティであった。
大正期、第十五代当主・遠藤榮が宮内庁大正天皇侍従として最高格式の宮廷奉仕を担ったことは、かつて德川将軍家に捧げられた「直参の絶対的忠誠(精忠)」が、近代の「天皇制ナショナリズムにおける臣節」へと止揚・公認されたことを意味する。したがって、遠藤宗家による三百年祭への奉賛は、旧主への義理(報恩)であると同時に、一族が保持し続けた武士道精神が近代国家のモラルとして正統性を有していることを、顕彰の場において実証・宣明する階層的儀礼であった。

3. 「東照宮社号標」にみる視覚的権威の不朽化とイデオロギーの統合
大正四年(1915年)6月3日の記念大祭では、会長・渋沢栄一が衣冠束帯姿で参列し、国家的な祝祭としての演出が完成した。この顕彰ネットワークの持続的物証として、大正十三年(1924年)5月に日光東照宮の表参道入口に建立されたのが、高さ約4メートルに及ぶ「一の東照宮社号標(石柱)」である。
• 渋沢栄一の揮毫と金色の葵紋の政治学
石柱に刻まれた「東照宮」の三文字は、渋沢栄一の直筆(揮毫)によるものである。石柱上部に付帯された「金色の葵の御紋」は、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈によって一時的に剥奪されかけた德川の宗教的・政治的権威が、近代日本の「歴史的記念碑」として国権的に再公認されたことを視覚的に表象している。
• 王法と仏法・神道の近代的一体化
遠藤宗家が開基した高徳寺本堂の「葵紋」が江戸における直参同心の結束の物証であったように、日光に建立された渋沢揮毫の社号標は、地方の末寺から総本山(知恩院)、そして聖地(東照宮)を結ぶ「德川顕彰の空間的・イデオロギー的ネットワーク」の不朽化を意味した。新政府による「王政復古」の公式歴史観の中に、德川260年の平和を「日本近代化の不可欠な前提(準備期)」として構造的に組み込むことで、近世の遺臣たち(渋沢・遠藤宗家ら)は、自らの歴史的正統性を近代国家の枠組みの中で永遠に固定化することに成功したのである。

日光東照宮三百年祭奉斎会をめぐる渋沢栄一の奉賛と、遠藤宗家ら旧直参層の連動は、前近代の主従関係が解体された近代日本において、「記憶の制度化」と「エリート・ネットワークの再編」がいかにして達成されたかを示す極めて構造的な事例である。

天正期の「神君伊賀越え」から慶長の「伏見城籠城戦」、そして江戸城「百人番所」へと至る遠藤宗家の歴史的軌跡は、明治維新と東京府誕生による「士族転換」「千駄ヶ谷の拝領地没収」によって、一時はその制度的基盤を完全に失った。しかし大正期、旧幕臣の象徴たる渋沢栄一が構築した財政的・文化的顕彰のネットワークにおいて、千駄ヶ谷・青山の地で近代の変容に向き合っていた遺臣たちは再び精神的に結集した。

彼らは「過去帳の記憶」に裏付けられた世襲の武士道精神を、宮廷奉仕(侍従職)や文化財保存という近代の公的職能へと昇華させた。渋沢栄一の筆跡が刻まれた日光の社号標は、封建的支配が終焉を迎えた後もなお、旧直参たちが紡ぎ続けた「見えざる忠誠のネットワーク」が、近代日本の精神的・文化底流として構造的に統合されたことを雄弁に物語っている。