遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

瀧樹神社

2026年09月12日
日本中世から近世への過渡期(織豊期〜江戸初期)は、各地に割拠していた土着的な軍事共同体が解体・再編され、近世幕藩体制の官僚制的軍事機構へと統合されていくドラスティックな変革期であった。この過程において、大名や幕府によって推し進められた「兵農分離」および「都市への集団移住(デプレイスメント)」は、在地領主層(地侍集団)が戦国期までに築き上げていた伝統的な共同体紐帯や産土神信仰に変容を迫るものであった。

近江国甲賀郡岩室郷を主たる本拠地の一つとした「甲賀衆(のちの德川幕府甲賀百人組)」と、彼らが郷中総社(氏神)として深く奉斎した「瀧樹神社」、および甲賀百人組の中核的血脈であり、近世には幕府旗本へと列した「遠藤宗家」の三者関係を事例として取り上げる。古代から近代へと至る過程で、彼らの「職能」と「信仰」がいかにして変容し、また新たに適応・再定義(再コンテキスト化)されていったのか、歴史制度論および社会史的観点から学術的に考察する。

一、在地における軍事共同体と宗祀構造:岩室郷と瀧樹神社の創祀伝承
近江国甲賀郡岩室郷(現・滋賀県甲賀市甲賀町岩室)は、中世において「甲賀衆(甲賀武士)」と称される有力地侍層が割拠し、郡中惣(惣国一揆)を形成した一揆的共同体の中心地の一つであった。当該地域における地侍たちの信仰の根幹をなし、一族の精神的紐帯の結節点となったのが瀧樹(たきき)神社である。同社の歴史的展開と職能的記憶は、以下の重層的な段階を経て形成された。

1. 古代「調膳伝承」に見る神聖職能の在地性
瀧樹神社は古くは「川田神社」と称し、地主神を奉斎していた。同社の御由緒において最も注目すべき学術的論点は、垂仁天皇四年に王権の神聖性を帯びた倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を奉じて近江国甲賀郡垂井日雲宮(現在の土山町周辺)に四年間滞在した際、同社が「調膳(神饌の調理・管理)」を司ったという伝承である。歴史地理的な実態として、瀧樹神社の正確な鎮座地は岩室郷そのものではなく、野洲川を挟んだ北岸の「土山町前野(あるいは頓宮)」に位置する。しかし、南岸の岩室郷を本拠とする国人領主層は、この野洲川流域・頓宮牧の郷中総社(総氏神)として同社を深く信仰しており、領域を越えた紐帯を形成していた。この「主君・神霊の側近において、生活・財産の根幹を管理・調達する」という調膳職能の記憶は、単なる神話的説話に留まらない。神聖王権の「生の根幹(食)」に関わることで、在地氏族が王権の正統性と直接結びついていたことを示し、のちに岩室郷を本拠とする甲賀衆の精神的・職能的骨格(アイデンティティ)を形成する基盤となった。

2. 中世領主制と「滝樹大明神」への変容
この「調筵・調膳」という特異な神聖職能の記憶を背景として、仁和元年(885年)には伊勢神宮の別宮である滝原宮より速秋津日子神・速秋津比賣神(水や食、川の秩序を司る神)の分霊を勧請・合祀し、「川田神社滝大明神」として岩室郷頓宮牧の総社へと発展した。室町時代の応永二十一年(1414年)、在地領主(地頭)であった岩室主馬頭家俊(あるいは橘家後)により、境内を覆う神の矛杉(樹木)にちなんで「樹」の字が加えられ、「滝樹(瀧樹)大明神」へと改号された。これにより、中世国人領主の主導のもとで独自の宗祀構造が強化され、一揆的結合の象徴として確立された。

3. 「ケンケト踊り」の呪術的・軍事的機能
延徳元年(1489年)より奉納が始まったとされる「ケンケト踊り」(国指定重要無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産)は、7歳から12歳までの男児が鶏毛を頭に戴き、鉦(かね)や太鼓の音律とともに長刀や棒を振る風流(ふりゅう)の系譜を引く祭祀である。これは単なる農耕儀礼ではなく、本質的には「疫病や邪霊(外敵)の侵入を防ぎ、共同体の境界を清める」という強力な呪術的空間管理の性質を持っていた。在地地侍層にとっては、一族の結束を確認し、外敵に対する軍事的威嚇と共同体の平穏を祈願する、重層的な軍事共同体祭祀であった。遠藤宗家の始祖である遠藤左太夫をはじめとする甲賀武士たちは、この共同体秩序の有機的構成員であり、野洲川を越えた同社を不抜の精神的基盤としていた。

二、空間的転位と紐帯の再編成:江戸開府と「甲賀稲荷神社」の創祀
慶長五年(1600年)の伏見城の戦いにおいて、始祖・遠藤左太夫ら甲賀武士は鳥居元忠らとともに城を死守して殉忠した。徳川家康公はこの多大なる功績と忠誠を高く評価し、伏見城で戦死した甲賀武士の子弟らを集めて「甲賀百人組(甲賀組百人同心)」として組織化。江戸への大規模な移住を命じ、千駄ヶ谷および青山権田原(現・東京都港区北青山・南青山、新宿区霞ヶ丘町周辺)に集団配置(デプレイスメント)した。

【空間的転位と職能の再コンテキスト化の構造】
<近江国甲賀郡岩室郷・土山町前野(中世)>
o 総社:瀧樹神社(川田神社)
o 職能:倭姫命への「調膳(近侍・管理)」 / ケンケト踊りによる「境界守護(呪術・軍事)」
[空間的転位]:慶長五年(1600)伏見城の戦いを経て江戸へ集団移住(デプレイスメント)
<武蔵国江戸青山権田原(近世)>
o 信仰の分祀:甲賀稲荷神社(甲賀組の開基寺院である高徳寺を檀家総代として維持)
o 職能の再適用:将軍近侍の「御納戸同心(財産・衣服管理)」 / 江戸城大手三門「百人番所」の警備(軍事)

1. 都市江戸における信仰の分祀と空間的再現
この空間的移転(デプレイスメント)は、在地的性格の強い地侍集団を德川幕府の官僚制的軍事機構へと組み込むためのドラスティックな政策であった。しかし、急激な官僚制化の中にあっても、彼らの地縁・血縁的紐帯は解体されなかった。甲賀百人組は德川幕府より拝領した青山権田原の鉄砲演習場内に、故郷・甲賀の信仰を分祀する形で「甲賀稲荷神社」を創祀し、遙か近江の瀧樹神社への遥拝を絶やさなかった。また、甲賀組の江戸入府に伴い、甲賀の旧寺(天正七年・1579年創設の由緒を持つ浄土宗寺院)を赤坂青山へと移転・再興する形で「高徳寺」を整備した。江戸城大手三門(百人番所)における厳重な警備という、不審者を冷徹に排除する軍事・近世権力の境界管理の中に置かれた同心たちにとって、少年期に身体に刻み込まれた「長刀を振り、境界を守る」というケンケト踊りの身体記憶や鉦の音は、大都市江戸において自らのアイデンティティ(甲賀武士としての誇り)を維持・補強するためのサイキック・シェルター(精神的防壁)として機能した。

2. 遠藤宗家による精神的統合
遠藤宗家は、これら江戸における甲賀組の精神的支柱となった「高徳寺」の檀家総代を務め、宗教・祭祀構造の管理を通じて、甲賀百人組の精神的統合者(結合結節点)としての社会的地位を不動のものとした。中世段階の在地信仰や始祖伝承を、江戸という新空間において首尾一貫した「由緒」へと再編(再コンテキスト化)することにより、集団の統摂機能を維持し続けたのである。

三、祭祀維持に見る階層構造と職能の連続性:『奉納、甲賀組百人姓名書』の史料的価値
近世後期から幕末期における三者の結びつきを客観的に裏付ける決定的な一次史料が、近代(昭和十三年)に発見された甲賀稲荷神社の随身像胎内文書、とりわけ弘化四年(1847年)の『奉納、甲賀組百人姓名書』である。

1. 職能の重層性と近侍性の実証
本文書において、遠藤宗家第十三代当主・遠藤左太夫の公的職名が「御納戸同心」であったことが確認されている。これは極めて重要な社会史的意味を持つ。将軍の衣服や調度品、財産を扱う「御納戸」は、将軍の身体に最も近い「奥」の空間であり、絶対的な「信用」と「不浄の排除」が求められる空間である。歴史制度論的な視点から言えば、戦国期にゲリラ戦や隠密・警備を主とした甲賀衆が、近世幕藩体制においてこのような「御納戸」の如き近侍職に就けたのは、血脈的・遺伝的な職能がそのまま連続していたからではない。伏見城の戦いという決定的な殉忠(命を賭した忠誠)によって、德川家から「最も裏切る可能性の低い、絶対的に信用できる近臣」として選抜されたことによる。
しかし、この「殉忠によって獲得した絶対的信用」を媒介として、主君の私的空間や生の根幹を管理・守護する職能へとシフトしたことは、古代において神霊の側近で神饌を調えた川田神社(瀧樹神社)の「調膳職能」の空間的・精神的パラダイムと見事な合致(再コンテキスト化)を見せる。
すなわち遠藤宗家は、大手三門・百人番所の警備を担う武官(軍事)職能のみならず、絶対的信用を基礎とした近侍的職能を近世の文脈へと見に適応させ、重層的に保持していた。この「主君への絶対的近侍」という象徴資本(文化資本)の一貫性は、近代(明治・大正期)において、第十五代当主・遠藤榮が大正天皇の侍従(東宮侍従)へと登用されるという、近代王権への三度目の再適用・回帰へと通底していくこととなる。

2. 共同体統摂機能の恒常性
德川入国から250年以上が経過し、多くの旗本・御家人が文弱に流れる幕末期(弘化四年)においてなお、祭祀文書の筆頭として遠藤左太夫が名を連ねている事実は、近江の瀧樹神社信仰から連綿と続く神縁と血脈が、遠藤宗家を頂点とする強固な階層組織(甲賀百人組)として、江戸の地でも極めて高い生命力を保っていたことを物語る。

瀧樹神社(現・滋賀県甲賀市土山町前野)、江戸へのデプレイスメント(集団移住)を遂げた甲賀百人組、そしてその中核的血脈を維持した幕府旗本・遠藤宗家の三者関係は、単なる一地方の郷土史的トピックに留まらない。それは、中世の「在地的・地縁的結合(一揆共同体・産土神信仰・境界守護としての祭祀)」が、近世の「都市的・官僚制的結合(幕臣・分祀神社・近侍職能への変容)」へと軍事集団の組織形態をシフトさせていく過程を、具体的な祭祀構造と一次史料(胎内文書)の変遷を通して客観的に立証する、日本近世社会史・制度史における極めて重要な帰納的実証事例であると言える。


【 瀧樹神社の概要 】
御祭神:速秋津日子神・速秋津比賣神(主祭神)
配祀神:大山祗神・事代主神・宇賀魂神
御神紋:右三ツ巴
建造物:本殿(一間社流造)、拝殿(入母屋造)、境内社(末社・天満宮)※明治の神仏分離まで神宮寺として「観音寺」を併設。
住 所:滋賀県甲賀市土山町前野155(旧岩室郷頓宮牧の総社)