遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

德川幕府甲賀組遠藤宗家と栗原鉚三村長にみる支配構造

2026年10月18日
千川用水の流域である武蔵国豊島郡上石神井村(現・東京都練馬区)周辺の歴史的展開において、遠藤宗家と栗原家は、それぞれ「徳川将軍家直参旗本」と「在郷実務名主」という異なる階層から德川幕府の支配体制を支え、明治以降の近代にいたるまで強固な地縁・血縁的相関関係を維持した。

• 遠藤宗家
遠藤宗家は、慶長五年(1600年)の伏見城の戦いにおいて討ち死にした甲賀武士・遠藤左太夫を祖とし、その忠義から代々德川将軍家直参(甲賀百人組)の地位を世襲した武家である。江戸城大手門(のちの大手三ノ門)百人番所の守衛など、幕府の軍事・警備の要職を担う一方で、幕府の権威を背景に地域社会に対しても強い影響力を保持していた。
• 栗原家
栗原家は、中世の石神井城主・豊島氏の時代から同地域に深く根を下ろす旧家であり、近世(江戸時代)を通じて旧上石神井村の「名主」を代々世襲した。栗原家は、幕府の地方支配における末端行政を実務面から統括し、三宝寺池周辺をはじめとする地域の土地・人口・そして重要水利を掌握する技術的・行政的官僚として機能していた。

【結節点1】軍事・テクノロジーの結合:大砲組の西洋砲術と千川用水の動力
第1の結節点は、幕末の海防危機において、両家が「德川幕府の近代兵器製造」という国家最高機密のプロジェクトを、それぞれ異なるアプローチから支え合っていた点にある。
① 講武所・大砲組における第十四代当主・遠藤市次郎の西洋砲術
文久二(1862)年、幕府は西洋式軍制の導入に伴い、伝統的な甲賀百人組を解体し、陸軍組織である「大砲組」へと改組した。この軍制改革の中心にいたのが、講武所奉行傘下の大砲組へと編入された遠藤宗家第十四代当主・遠藤市次郎である。遠藤市次郎らが従事した「講武所」や大砲組では、陣形や号令の洋式化(フランス式軍制)が進められ、アームストロング砲やゲベール砲などの運用、弾道計算や仰角・俯角の数学的算定、射距離に応じた薬量調合など、精密な科学技術としての西洋式砲術訓練が施された。伝統ある甲賀武士の血統(火薬調合や冶金技術の世襲)を受け継ぐ遠藤市次郎は、最新鋭の火器戦術を運用する洋式軍隊の中核として、幕府直轄軍の再編を支えていた。

② 滝野川反射炉の建設と千川用水の動力
大砲組の改組と軌を一にするように、幕府は元治元年(1864年)、海防強化(大砲鋳造)の重要拠点として武蔵国豊島郡滝野川に大砲製造のための「滝野川反射炉」を建設した。最新鋭の鉄製大砲を鋳造し、その砲身に穴をあける「錐揉(きもみ)機械」の動力用水車のため、「千川上水」から分水(王子分水)を引き、同反射炉を完成させた。遠藤宗家が運用・訓練する近代砲術の土台(大砲の製造)は、千川用水の水力がなければ成り立たず、両家は「大砲」というオブジェクトと「千川用水」というインフラを通じて、婚姻前から不可分に結合していた。

【結節点2】支配構造の補完:旗本中央の「武断的権威」と名主在郷の「測量技術・民政実務」
第2の結節点は、江戸幕府の支配構造における「中央の軍事エリート(旗本)」と「地方の官僚的エリート(名主)」という、政治的・階層的な補完関係、とりわけ双方に共通する高度な「計算・技術能力」の共鳴にある。
① 在郷有力名主に不可欠な高度な「測量技術」
千川用水の直接の取締役は千川徳兵衛家・太兵衛家が世襲したが、上流から下流に及ぶ流路の維持や水利調整には、代々上石神井村の名主を務めた栗原家の協力が不可欠であった。栗原家には、古くから土木・水利行政を実務面から主導するための「名主に伝わる測量計」など、高度な数学的・地形的「測量技術」が世襲され、現存している。

千川用水から周辺農村へ水を一寸の狂いもなく分配する「水利権の傾斜調整」や、地形に応じた水路の維持管理において、この技術力は地域の生命線を握るものであった。中央の遠藤市次郎らが講武所で「大砲の弾道・仰角計算」という軍事的な数値管理を行っていた同時期、在郷の栗原家は「水の傾斜・流量計算」という民政土木的な数値管理を行っており、両家は「テクノロジーを管理するエリート層」として間接的に響き合っていた。

【幕末における「技術・権威」の二大支配構造と、その近代化の行方】
徳川将軍家 ── 直参旗本:遠藤宗家「大砲組」 ── 講武所での西洋砲術(大砲の弾道計算)
│(第十六代当主・遠藤武、妻・里子 婚姻以前からの間接的・構造的紐帯)
上石神井村名主:栗原家 ── 千川用水の管理・独自の「測量技術(測量計)」
│
【滝野川反射炉跡地の近代産業史】
1864年:滝野川反射炉完成(幕府倒壊で使用されず)
│(水車動力の継承)
1872年:民間初の「鹿島紡績所」操業開始
│(1888年「東京紡績」へ吸収、のち工場廃止)
1904年:「大蔵省」が「醸造試験所」を設置

② 王子分水開鑿における過酷な助郷と栗原家による調停
大砲製造所の水車へ水を導くため、幕府は慶応元年(1865年)、千川上水の巣鴨沈殿溜りから飛鳥山の西側に至る、長九百間(約1.6キロメートル)に及ぶ「王子分水(堀割)」を開鑿した。この際、石神井村を含む千川用水沿いの周辺18ヶ村の農民に対し、極めて過酷な「助郷(労働力・人足の強制徴発)」が課せられた。古文書の記録によれば、この工事は周辺農村から膨大な人足を動員し、わずか2ヶ月半という短期間で完了させる不眠不休の突貫工事であった。

下流の軍事工場(大砲製造所)への優先通水は中流域の農業用水の枯渇を意味し、農村の生存を揺るがす死活問題であった。上石神井村の名主であった栗原家には、こうした助郷の負担軽減や負担免除を役所に願い出る行政交渉記録(『栗原家文書』など)が残されている。栗原家が幕府陸軍の中枢である大砲組を率いる直参旗本・遠藤宗家と親戚関係にあったことは、在郷における政治的発言力を担保した。幕府の軍事権威を後ろ盾に持つことで、栗原家は他村や下流の軍事工場との折衝において有利に立ち、「国家的要請(大砲製造)」への協力を盾にしつつ、一方で「自村の助郷負担の軽減」や「農業水利権の死守」を引き出す民政の調停者として機能していた。

【結節点3】近代都市インフラへの昇華と産業遺産の変遷:「村長・栗原鉚三」の自治行政
第3の結節点は、明治維新による旧幕府体制の瓦解後、千川用水の役割の変遷(農業から近代産業、そして都市インフラへ)と滝野川の敷地利用の変遷に伴い、両家のネットワークが近代的な地域開発へと昇華していった点にある。
① 滝野川反射炉跡地における近代産業の変遷
苦心の末に完成した滝野川反射炉であったが、直後の幕府の倒壊により、大砲製造で使用されることはなかったという。しかし、その遺産である千川用水の水車動力は、近代日本の幕開けとともに民間産業へと受け継がれた。明治五年(1872年)、反射炉の跡地にこの水車を利用した民間初の紡績工場「鹿島紡績所」が置かれ、操業を開始した。同紡績所は日本の産業革命期を支えたが、明治二十一年(1888年)に「東京紡績」に吸収合併され、滝野川の工場は廃止されるに至った。その後、明治三十七年(1904年)になると、この紡績所跡地に「大蔵省」が「醸造試験所」を設置し、日本酒醸造の近代化を図る国家的な研究拠点へと衣替えを遂げた。

② 栗原鉚三村長による「水」の観光・都市インフラ化
千川用水の機能がこのように下流の近代産業や大蔵省の施設、さらには近代水道へと完全にシフトしていく中で、上流の石神井村における農業用水としての役目は終焉を迎え、流路の大部分が暗渠(地下管)化へと向かった。この歴史の転換期において、大正五年(1916年)から昭和七年(1932年)まで石神井村長を務めたのが栗原鉚三である。栗原鉚三村長は、千川用水に依存する従来の農業から脱却し、名主時代から受け継がれた確かな測量・土木技術を近代的なまちづくりへと応用し、石神井が持つ独自の豊かな水源である「三宝寺池(湧水)」に着目した水資源の都市的な再定義を行った。

•石神井池(ボート池)の創設:かつて千川用水の恩恵を受けていた自身の広大な所有地(田んんぼ)を提供し、自前の土木知識をもって三宝寺池の湧水を導き「石神井池」を人工的に築堤。現在の都立石神井公園の美しい風致を完成させた。
•近代交通・通信の確立:武蔵野鉄道(現・西武池袋線)誘致のために五千余坪の土地を寄付し、大正十一年(1922年)には石神井郵便局を開局させて自ら初代局長に就任するなど、通信・交通の近代化を一気に推し進めた。

德川将軍家直参旗本・遠藤宗家との結びつきによる伝統的・地主的な地域権威を保持しつつ、それを近代の地域開発(鉄道誘致・文教風致地区の形成)へと昇華させた栗原鉚三村長のガバナンスは、両家の持つ「エリート層の階層間ネットワーク」の近代における最高到達点と言える。

德川幕府甲賀百人組から発展した遠藤宗家と、栗原鉚三に連なる名主・村長家系の史的関連は、単なる近代の通婚関係を超え、幕末の国家防衛テクノロジー(講武所・西洋砲術・滝野川反射炉)と、それを末端で支えた地方インフラ(千川用水)・名主に伝わる高度な「測量技術」・そして明治から大蔵省醸造試験所に至る産業変遷が高度に交差する、立体的な支配・連関モデルとして学術的に位置づけられる。

遠藤市次郎が講武所で大砲の連続射撃や弾道計算に励んでいた同時期、栗原家は名主に伝わる測量計を駆使して千川用水を差配し、反射炉の水車のために王子分水の過酷な突貫工事や助郷を支えていた。反射炉自体は幕府倒壊により使用されず、のちに「鹿島紡績所」や「大蔵省醸造試験所」へと変遷していくが、この近代産業の礎となった千川の水利と、婚姻前からの両家の強固なネットワーク・高い数値管理能力があったからこそ、近代において第十六代当主・遠藤武と妻・里子の婚姻という形で両家の絆は必然的に顕在化したと言える。

そしてそれは、栗原鉚三村長による「石神井公園(石神井池)の整備」をはじめとする、近代的な文教風致・住宅都市へのドラスティックな生まれ変わりへと見事に結実したのである。