遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

桓武天皇皇統の遠藤宗家と時代祭の紐帯

2026年10月22日
毎年10月22日に京都市内で挙行される京都三大祭りの一つ「時代祭」の具体的動態と、德川将軍家直参の旗本家系である「遠藤宗家」の二つの表象について、系譜学、都市社会学、および文化人類学の視点から学術的に考察し、両者が帯びる構造的紐帯を実証的に再構築する。

1. 系譜学・祭祀学的紐帯としての桓武天皇
学術的分析における第一の結節点は、皇統から分枝した血脈と、近代都市祭祀の主祭神という「権威の根源」の共有にある。第五十代桓武天皇は平安京の創始者であり、その歴史的権威は近代都市祭祀と武家系譜という二つの異なる経路へと分岐した。

一方は「時代祭の創始と祭神」への展開である。明治二十八年(1895年)に平安遷都千百年を記念して創建された平安神宮において、桓武天皇はその主祭神として祀られ、時代祭の精神的支柱となった。他方は「臣籍降下による平姓の賜姓」への展開である。桓武天皇の血統から軍事貴族である桓武平氏が誕生し、この武家血脈は中世を経て「遠藤宗家の始祖」へと繋がっていく。遠藤宗家の系譜は、藤原南家工藤氏流との結合や、近江甲賀および美濃への土着を経て、江戸期における甲賀百人武士(德川直参旗本)の地位へと結実した。このように、時代祭が称える都市祭祀の権威と、遠藤宗家が保持する武家系譜の実体は、ともに桓武天皇という同一の根源から出でた双子的な表象であるといえる。

1-1. 時代祭における桓武天皇の神格化と空間的展開
時代祭は、明治二十八年(1895年)に平安遷都1100年を記念して平安神宮が創建されたのを祝って始まった。延暦十三年(794年)10月22日に桓武天皇が長岡京から平安京へと御入内された史実を起点とする神幸祭の奉祝行事であり、いわば「平安京の創始者」への崇敬を都市規模で可視化するシステムである。祭礼当日、行列は京都御苑(京都御所)を出発し、平安神宮までの約4.5キロの秋の都大路を巡行する。これは「内裏(天皇の在所)」から「神宮(神格化された天皇の社)」へと歴史を逆行・遡行しながら移動する、空間政治学的な意味空間の再創出に他ならない。

1-2. 遠藤宗家における桓武天皇の血統
遠藤宗家の由緒および家伝によると、その本姓は第五十代桓武天皇に起源を持つ「桓武平氏」に求められる。皇室を離れて臣籍降下し、平姓を賜った軍事貴族の系譜を引く。中世において、千葉氏流東常慶の養子となった遠藤盛数から美濃国(現在の岐阜県)に拠点を持ち、のちの藩主家(郡上藩)や、遠藤左太夫を始祖とする「甲賀百人武士(德川将軍家直参旗本)」の血脈へと繋がっていく。したがって、時代祭が称える「都の始祖としての天皇」と、遠藤宗家が保持する「臣籍降下した一族の祖としての天皇」は表裏一体であり、同一の歴史的始源から出でた二つの異なる結実(祭祀空間と血統実体)であるといえる。

2. 歴史空間における「表舞台(可視化された風俗)」と「裏舞台(不可視の治安)」の構造的対比
両者の関係性は、単なる血縁の記憶にとどまらず、時代祭が再現する「可視化された歴史(表)」と、遠藤宗家が実際に担った「不可視の治安機能(裏)」という構造的対比において顕著に表れる。

2-1. 動く歴史絵巻の規模と社会的波及
近年の実施において、時代祭は衣装をまとった市民ら約2,000人が参加し、沿道には約4万5千人の人出を記録する大規模な都市祝祭空間を現出させている。明治維新から江戸、安土桃山、室町など8時代20の行列が、千年以上にわたって都だった京都の歴史と文化を伝えるべく、長さ約2キロに及ぶ大行列(動く歴史絵巻)を形成して時代をさかのぼる形で練り歩く。この行列内では、羽柴(豊臣)秀吉らが加わる「織田信長の上洛列」や、「紫式部」「清少納言」ら平安時代の女性たちの列が登場し、かつて京都が中心舞台であった「公的権威の上洛・実在」が厳密な時代考証に基づき美的に視覚化される。

2-2. 德川上洛列と甲賀百人組の警衛体制
この華麗な歴史絵巻のなかで、江戸幕府の将軍名代(城使)が朝廷への礼を尽くすために京の都を練り歩く公的行列が「德川城使上洛列」として再現される。これに対し、遠藤宗家の始祖(左太夫)が属した甲賀百人組(甲賀百人同心)は、德川家康公の江戸入府から爾後260年余にわたり、江戸城大手門や百人番所の警衛、さらには将軍上洛時における市中の隠密警護・治安維持を実質的に指揮したプロフェッショナルな軍事集団であった。祭礼において観光的・美的に称賛される「江戸期の公的権威の上洛」という華麗な表舞台を、実社会の史実の影で物理的・実務的に支えていたのが、遠藤宗家をはじめとする直参武士の防衛ネットワーク(裏舞台)であったというパラダイムが成立する。

2-3. 維新勤王隊と幕臣の社会的転換
時代祭の先頭を飾り、祭りの象徴でもある「維新勤王隊列」は、明治維新における新政府側(朝廷側)の勝利と、近代国家へのパラダイムシフトを祝福する意図を持つ。一方、幕臣として江戸城の守衛にあたっていた遠藤宗家にとって、明治維新(1868年)は「德川直参としての世襲的地位の終焉」という歴史の激動そのものであった。遠藤宗家はその後、明治十七年(1884年)の華族令制定にともない「士族」へと籍を移し、近代日本の社会構造へ適応していくこととなる。

3. 近代化における「伝統の創造」と「地域祭祀の再文脈化」
文化人類学的視点、およびエリック・ホブズボームが提唱する「伝統の創造」の観点から両者を分析すると、明治から大正にかけての近代化、すなわち国家神道化や都市再生のプロセスにおいて、驚くべき共時的並行現象が観察される。京都の都市構造においては、明治維新にともなう東京遷都によって「帝の不在」という未曾有の事態が生じ、千年の都としての都市活力、経済基盤、そして文化的アイデンティティの喪失という深刻な危機に瀕していた。一方で、東京の遠藤宗家(第十五代当主・遠藤榮)をめぐる環境もまた、明治維新による德川幕府の崩壊という激動の最中にあった。これは家禄の喪失のみならず、将軍家直参の旗本としてのアイデンティティそのものを揺るがす階級的・存在論的な危機であった。

このような決定的な危機に対し、両者はそれぞれ特有のアプローチを試みることで伝統を再文脈化していった。京都の市民社会は、すでに消失した「平安の過去」を呼び戻すべく「時代祭」を創始した。のちに市民約2,000人の奉仕と沿道4万5千人もの観衆を動員するにいたるこの祭礼は、歴史を空間的に可視化・復元・再創造する画期的な試みであった。これと呼応するように、遠藤宗家は家系に伝来する貴重な古文書の保存・管理を徹底するとともに、甲賀稲荷神社等の氏子大惣代としての重責を担い、歴史的資料の護持と地域祭祀の継承に尽力した。

さらに、これらのアプローチは最終的に「宮廷との新たな接続」という形で、近代国家における新たな正統性へと昇華していく。時代祭は、平安神宮の創建とともに皇室の厚い崇敬を集めるようになり、やがて京都一地方の祭礼を超えて、全国的な「日本の伝統」を象徴するモニュメントへと再定義されていった。対する遠藤宗家においては、第十五代当主・遠藤榮が大正天皇の宮内庁東宮侍従に任官し、さらに女官奉仕とも相まって、一族の役割を近代宮廷への参画という形で再構築した。

この比較が示すのは、時代祭が「失われた天皇の都」を祭礼という形式によって京都の街に呼び戻し、市民の手によって「千年の都の記憶」を維持したのと時を同じくして、第十五代当主・遠藤榮は「幕臣の記憶」を「宮廷(侍従)への奉仕および神社氏子としての祭祀継承」へと昇華させ、近代国家の新たな秩序のなかで独自の正統性を確立したという歴史的実態である。

4. 結論
学術的に「時代祭」と「遠藤宗家」の紐帯を結論づけるならば、「第五十代桓武天皇」という日本史の巨大な始源から分枝し、近代において再び独自の円環を結んだ二つのモニュメントである。一方は、天皇が拓いた「千年の都のみやび」を、厳密な時代考証のもとに視覚的・空間的祭礼として都市規模(市民2,000人の奉仕、沿道4万5千人の観衆、4.5キロの巡行)で可視化した動く歴史の「空間モニュメント(時代祭)」である。

他方は、その天皇から発した「桓武平氏」の血脈を、甲賀武士、德川直参の旗本、そして近代宮廷の侍従から現代の社会貢献事業(遠藤宗家事務局・遠藤総合研究所)へと、実体社会のなかで超長期にわたり繋ぎ続けた生きた歴史の「時間モニュメント(遠藤宗家)」である。「伝統の創造」という近代日本の自己定義のプロセスのなかで、表象(祝祭)と実体(血統)の双環構造を成しながら、現在もなおその正統性を保持し続けている。