遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

德川家斉公期における鼠山感応寺の千川用水引水計画

2026年10月29日
1. 本史料の位置づけと都市利水インフラをめぐる歴史的背景
天保年間(1830年代)、第十一代将軍・德川家斉公の発願によって雑司ヶ谷鼠山(現・東京都豊島区目白から西池袋周辺)に建立された日蓮宗の大寺院「長曜山感応寺」は、将軍の威光と大奥政治の奢侈を象徴する存在であった。練馬区指定文化財「千川家文書」などに遺された割地(分水)申請に関わる一次史料は、同寺境内の池の減水、および家斉公の御台所(正妻)・広大院(茂姫)ゆかりの放生鯉の衰弱を理由に、江戸城北の主要な都市供給水路である千川用水(千川上水)からの私的引水を試み、幕閣へ請願した事実を生々しく伝えている。

元禄九年(1696年)に開削された千川上水は、小石川御殿や本郷・浅草方面の武家地・町人地への給水を主目的とする国家的な都市インフラであり、同時に周辺農村の農業用水(新田開発)としても機能していた。この限られた水利資源に対する感応寺の「特権的利用」の動向を読み解くには、当時の将軍親政期における大奥権力と、幕府の統制・監査において中核的役割を果たした直参旗本・遠藤宗家、およびその母体たる甲賀組鉄砲百人組の存在を構造的に位置づける必要がある。

2. 遠藤宗家と千川用水管理における行政的・技術的権能
遠藤宗家は、近江国甲賀衆の系譜を引き、江戸城大手三之門の「百人番所」の警備を統括・所属する甲賀組鉄砲百人組の有力な直参である。江戸幕府の行政・インフラ管理機構において、甲賀組をはじめとする百人組関係者は、単なる城壁の守衛にとどまらず、江戸後期にかけて幕府の財政・物資管理を司る「御納戸同心」などの役方(行政・財務官僚)へと機能的に組み込まれていった。彼らは、高度な組織統率力や厳格な監査能力を背景に、幕府の財務・物資管理や行政実務の監査(御納戸同心など)に携わっており、利水権の改編や特権的な請願に対しても、幕府の統制ルールや財政的妥当性の観点からチェック・合議を行う、実務・監査官僚としての側面を有していた。

千川用水の管理実務は、民間請負人(取締役)である千川家が現場を差配していたが、行政的な水利権の改編や割地の認可においては、技術的・財務的な審査と不法行為の抑止を担う幕臣(遠藤宗家ら)による監査・合議システムが介在していた。したがって、大奥の威光を背景とした感応寺の引水請願であっても、技術的な通水可能性の検証や水量調節のインフラ統制においては、遠藤宗家をはじめとする実務幕臣による厳しい監査プロセスの通過、あるいはそれらとの行政的摩擦の発生は避けられない構造にあった。

3. 総水利バランスにおける空間的摩擦と青山甲賀組屋敷
甲賀組の組屋敷は、江戸城西方の青山百人町(現·港区南青山、渋谷区神宮球場周辺)に広大な宅地を拝領していた。地理的に見れば、青山組屋敷は主に玉川上水や渋谷川(穏田川)系統の水利需要下にあり、城北(巣鴨・本郷)を流れる千川用水の物理的な流路からは離れている。しかし、江戸の上水ネットワーク全体というマクロな視座においては、両者は緊密な「トレードオフ関係」にあった。

千川上水はそもそも玉川上水本流から武蔵野台地東端で分水(取水)しているため、千川への過度な引水は、玉川上水本流およびそこから派生する城西・城南地域(青山を含む)への総給水量を狂わせるリスクを孕んでいた。鉄砲百人組の拠点は、多数の構成員とその家族が日常的に集住する生活・軍事拠点であり、さらに有事の訓練や日常の維持のためにも、安定した総水利の確保が死活問題であった。そのため、感応寺による「池の維持・放生鯉の保護」という非生産的・儀礼的な特権的引水要請は、遠藤宗家らが維持すべき江戸全体の総水利バランスを揺るがし、ひいては自らの本拠である青山組屋敷の潜在的水利安定をも脅かしかねない、構造的な水利摩擦を内包していた。

4. 政治構造の変容と機能的再編:天保改革から滝野川反射炉への水力転用
感応寺の引水請願は、大奥(広大院)の絶対的な権力構造を背景に、本来の都市給水規定や遠藤宗家らが遵守すべき管理原則を超越して通されかけた「水の私物化」の試みであった。しかし、家斉公没後の天保十二年(1841年)に始動した「天保の改革(老中・水野忠邦主導)」により、奢侈の象徴とされた感応寺は「感応寺事件」の摘発を経て即座に廃寺・破却処分となり、大奥主導の特権的引水ルートは完全に頓挫した。

この帰結は単なる一寺院の取り潰しにとどまらず、江戸の都市インフラにおける大きなパラダイムシフトを意味していた。家斉公期にみられた「大奥の権威誇示のための消費的利水」は否定され、幕末期の国防強化(洋式砲術の受容)に伴い、千川用水の余剰水力および利水権は「生産的・軍事的高高度利用」へとドラスティックに再編される。

具体的には、千川用水の流域である武州豊島郡滝野川村(現・北区滝野川)に設置された「大砲御製造所(滝野川反射炉)」において、最新鋭の火器戦術を運用する洋式軍隊(幕府直轄軍)への再編を支えた遠藤宗家第十四代当主・遠藤市次郎らの軍事的・組織的管理職能が、千川用水から引き込まれた王子分水の水車動力と結びつき、近代的な国防インフラへと機能的に転用されていくこととなる。このように、感応寺の引水計画と遠藤宗家の構造的関連は、江戸時代後期から幕末にかけての「大奥政治の特権的消費」から「近代国防のための生産インフラ」への、千川用水という歴史的空間の変容軸において鮮明に捉えることができる。