遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

武蔵野鉄道

2017年07月28日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三 石神井村村長は、石神井の有力地主であった。

1912年(明治45年)に発足した現在の西武鉄道池袋線の前身である武蔵野鉄道の開通に向け、石神井公園駅駅舎敷地の五千余坪を寄付し、鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻み、その石碑は大正9年に造立された。現在、石神井公園駅 南口に「石神井火車站之碑」が建立されている。

武蔵野鉄道設立から3年目の1915(大正4)年、池袋〜飯能間の43.7kmを開通させた。この時点で開業した駅は池袋、東長崎、練馬、石神井、保谷、東久留米、小手指(現・西所沢)、元狭山(三ヶ島村→現・狭山ヶ丘)、豊岡町(現・入間市)、仏子、飯能。駅の数は現在の半分以下しかないが、開業した年の9月1日の時刻表によると、1日8往復の全線直通運転のみで、区間列車はない。所要時間は池袋から所沢までは54〜56分、飯能には96〜129分。当時、川越鉄道の所沢〜国分寺〜新宿の列車は、接続状態でかなりの差があったが、68〜106分かかったとされる。武蔵野鉄道は、開業初年度から貨物において川越鉄道を凌駕し、3年目には旅客数でも上回っていた。

開業当時、沿線には典型的な農村風景が広がっていたが、国の近代化と鉄道の利便性の波に洗われたことで、都市化が進んでいく。1920(大正9)年に行われた日本初の国勢調査で、長崎村(現在の豊島区西部)の人口は約3500人だったが、5年後には約4倍に急増している。関東大震災を機に、都心から郊外への移住が進んだことも大きいが、さらに5年後の1930(昭和5)年には、人口は3万人弱にまで増えている。
 
その頃、郊外化したのは練馬あたりまでだったが、武蔵野鉄道には先見の明があり、1922(大正11)年には、首都圏の蒸気運転の鉄道としては初めての電化を実施(池袋〜所沢間)。電車と汽車の混合運転を開始し、1925(大正14)年には飯能までの電化を成し遂げている。列車本数は汽車時代の倍以上に増え、現在まで続く近郊電車としての立ち位置が、ここで明確になった。



■ 武蔵野鉄道
元武蔵野鉄道株大会社と称し、明治45年5月資本金100万円をもって設立、直ちに起工し大正4年4月15日池袋-飯能間43.8kmの鉄道を完成して汽車による営業を開始した。その後、路線は拡張、電化を行なって昭和4年9月現在の池袋線(池袋-吾野間及び練馬-豊島園間)を完成して基盤を確立し、昭和15年3月12日には、9.9kmの多摩湖鉄道株式会社を合併し、昭和20年9月22日には村山、川越線ほか鉄道67.6km、軌道7.5kmを有する西武鉄道株式会社及び両社の沿線において農場を経営中の食糧増産株式会社を吸収合併して、商号を西武農業鉄道株式会社と改称、更に昭和21年11月15日商号を西武鉄道と改称した。初代社長は、平沼専造(1836-1913)。埼玉県飯能出身の明治初期の実業家、石炭、生糸、土地取引で産をなし、地元の鉄道事業に進出。当時東京へは川越鉄道の入間川(現狭山市駅)まで馬車で出る不便があった。