遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

青山百人町

2017年07月28日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖は甲賀武士であった。徳川家康公の江戸城入府により、近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷へ移転)に居住した。

青山百人町は、現在の善光寺周辺に位置する旧町名である。(現在の表参道駅周辺)青山百人町の周辺は、江戸時代には武家屋敷の塀に囲まれた昼でも暗いところであった。

地名の由来になったのは、江戸城の本丸と大手三門を警備していた甲賀百人武士である与力、同心が、一帯を組屋敷としていたからである。

「百人町」の地名は、大久保の伊賀組鉄砲百人隊がいたところで有名である。伊賀組は、「内藤家」、甲賀組は、「青山家」の元敷地に位置する。

浄土宗を信仰していた甲賀百人組の菩提寺である高徳寺は、遠藤宗家が開基家として天正七年(1579年)に建立した。

嘉永二年(1849年)十一月、『徳川幕府寺社奉行』に録上したもののなかに、【浄土宗 京都知恩院未寂光山唯心院 高徳寺】とあり、甲賀組が幕府から給った年貢地が原宿村にあり、今では寺の年貢地になっていると記述されている。そのことから、遠藤宗家第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)等が檀家総代を務めた。

この百人町では6月の晦日から7月の晦日まで、家々で盆灯篭を 高い棹の先につけて飾る風習があった。二代将軍・徳川秀忠公が、江戸城で亡くなった年から始まったとされる。年々、七夕の笹と同じで「高さ」を競うようになり、これを遠くから見ると、百人町の上にたくさんの星が出ているように見え、「百人町の星燈籠」または「星提灯」と呼ばれるようになった。

七代将軍・徳川家継公が目黒にお成りの帰り道、遠くからこれを目にして、お付の者に尋ねたところ「台徳院(秀忠公)さまの菩提を弔うため、甲賀百人武士の与力・同心たちが続けている」と報告を受け、甲賀百人組は報奨金を賜った。それ以来「星燈籠」は年中行事となり、この期間青山百人町は江戸の名所になった。 


■ 青山の由来
青山地区と神宮前、新宿区南部一帯。中央の東西を横断する道は「大山詣り」の大山道(青山通り)。通り沿いの百人町は、鉄砲隊・百人組の組屋敷。通りを離れた青山大膳亮は、美濃郡上藩青山家の下屋敷。現在の青山霊園で、青山の地名の由来となった。梅窓院は青山家、高徳寺は遠藤宗家の菩提寺。畑地に記される長者ヶ丸とは、白金の「白金長者」に対する渋谷の「黄金長者」の邸跡の言い伝え。伊予西条藩・松平左京太夫の屋敷を過ぎれば、宮益町・道玄坂へと到る。