遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

百人番所

2017年08月03日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖は甲賀武士として、江戸城大手三の門の警備を受け持っていた。

大手中の門の枡形を通り過ぎると左手に大手三の門の警備を担当していた鉄砲百人組の百人番所がある。百人番所は長さ約50メートルの大きな建物である。ここに、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組の鉄砲百人組が昼夜交替で詰めていた。  

各組には各20騎の与力と100人の同心が配置されていた。百人蕃所は「中の門」の目の前にあるので、「中の門」の警備のためにあるように見えるが、「中の門」の警備は持弓組と持筒組が担当していた。

鉄砲百人組は、二十五騎組、伊賀組、根来組、甲賀組の四組からなり、二十五騎組の与力が25騎で、他の三組は 与力が20騎で、鉄砲同心は各組に百人ずつ配属された。そのため、百人組と呼ばれた。その人員も編成当初は組名の通り、伊賀・甲賀・根来衆といった鉄砲の扱いに優れた者を召抱えた。 鉄砲百人組は平時は主に江戸城大手三の門に詰め、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際は山門前を警備した。

百人組は甲州街道沿いに配備されたことから、この鉄砲百人組の組屋敷は、それぞれ伊賀組は大久保に、甲賀組は青山、根来組は市谷、二十五騎組は内藤新宿にあった。このように鉄砲百人組の組屋敷は、すべて甲州街道沿いに位置していた。

切絵図を見ると、「千駄ヶ谷・鮫ヶ橋・四谷」の切絵図の中に「百人組 俗に二十五キト云」、「市谷・牛込」の切絵図の中に「根来百人組」、「東都青山」の中に「百人町ト云」、「牛込市谷大久保」の中に「百人組」と書かれている。そうしたことから、かつては百人組に由来を持つ遠藤宗家の青山百人町(青山)、根来百人町(市ヶ谷)、百人町(大久保)の地名が存在した。その中で、大久保の百人町は現在も新宿区で百人町として地名が残っている。その名残りで現在も新宿区を中心に「江戸幕府 鉄砲組百人隊」が活動している。


■ 大手門
旧江戸城の正門。大名はここから登城していた。慶長11年(1606)藤堂高虎の設計。寛永6年(1629)の工事は、酒井忠世が分担。左右の石垣は、伊達政宗が築造した。