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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
赤坂離宮 迎賓館
2017年10月31日
遠藤宗家甲賀組とゆかりのある紀州徳川家の江戸中屋敷跡に赤坂離宮迎賓館が建設された。明治維新以降、我が国は近代国家として成長した30年後に洋風の東宮御所を新たに建設しようとする気運が起こり、明治32年(1899年)に着工し10年の歳月をかけ、明治42年(1909年)に敷地面積117,062平方メートル(35,411坪)、建坪5,170平方メートル(1,566坪)の赤坂離宮が完成した。建物は、幅125メートル、奥行き89メートル、高さ23.2メートルの広大さを誇る。
建物の構造は鉄筋補強煉瓦造りで、地上二階、地下一階の耐震、耐火構造となっている。明治時代の建築家片山東熊の総指揮の下、当時の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した、日本における唯一のネオバロック様式の西洋風宮殿建築である。
この建物は、昭和天皇や今上天皇が一時期お住まいになって以来、東宮御所として利用されることがなく、戦後、建物、敷地ともに国に移管され、国立国会図書館、内閣法制局、東京オリンピック組織委員会など国会及び行政の期間として使用された。
戦後十数年が経過し、国際関係が緊密化し、外国の賓客を迎える機会が多くなり、我が国にはそれに充てる国の施設がなかったため、昭和38年(1963年)国の迎賓館を作る方針が立てられ、昭和42年(1967年)、赤坂離宮を改修して迎賓館に充てることが閣議決定された。
改修工事は、昭和43年(1968年)から5年有余の歳月と108億円の経費をかけ、和風別館の建設と合わせて昭和49年(1974年)に現在の迎賓館赤坂離宮が完成した。なお、平成21年(2009年)、創建当時の建物である迎賓館赤坂離宮の本館、正門、主庭噴水池等が明治維新以降の建造物として初めて国宝に指定された。
■ 紀州徳川家
江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家の一家。徳川御三家・紀州藩に伝えられていた、日本三大忍術伝書の一つ「正忍記」。「正忍記」の内容は大きく分けて3つ。具体的忍術解説、忍術環境論(観察眼や洞察術など)、奥義書の心理忍術(コミュニケーション術など)。例えば、忍ぶときの変装技術や、夜道を進むときの注意点、人の秘密を聞き出す方法などが記されている。この書物の著者・名取三十郎正澄の墓は、恵運寺(和歌山市吹上)にある。
建物の構造は鉄筋補強煉瓦造りで、地上二階、地下一階の耐震、耐火構造となっている。明治時代の建築家片山東熊の総指揮の下、当時の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した、日本における唯一のネオバロック様式の西洋風宮殿建築である。
この建物は、昭和天皇や今上天皇が一時期お住まいになって以来、東宮御所として利用されることがなく、戦後、建物、敷地ともに国に移管され、国立国会図書館、内閣法制局、東京オリンピック組織委員会など国会及び行政の期間として使用された。
戦後十数年が経過し、国際関係が緊密化し、外国の賓客を迎える機会が多くなり、我が国にはそれに充てる国の施設がなかったため、昭和38年(1963年)国の迎賓館を作る方針が立てられ、昭和42年(1967年)、赤坂離宮を改修して迎賓館に充てることが閣議決定された。
改修工事は、昭和43年(1968年)から5年有余の歳月と108億円の経費をかけ、和風別館の建設と合わせて昭和49年(1974年)に現在の迎賓館赤坂離宮が完成した。なお、平成21年(2009年)、創建当時の建物である迎賓館赤坂離宮の本館、正門、主庭噴水池等が明治維新以降の建造物として初めて国宝に指定された。
■ 紀州徳川家
江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家の一家。徳川御三家・紀州藩に伝えられていた、日本三大忍術伝書の一つ「正忍記」。「正忍記」の内容は大きく分けて3つ。具体的忍術解説、忍術環境論(観察眼や洞察術など)、奥義書の心理忍術(コミュニケーション術など)。例えば、忍ぶときの変装技術や、夜道を進むときの注意点、人の秘密を聞き出す方法などが記されている。この書物の著者・名取三十郎正澄の墓は、恵運寺(和歌山市吹上)にある。