遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

德川恒孝 德川宗家第十八代当主

2018年03月01日
遠藤 潔 第十八遠藤宗家は、德川将軍家譜代の大名、旗本並びに御家人等の幕臣の子孫が、德川御宗家を中心に結集し、正しい目で江戸時代を見直し、先祖を偲び、その武士道精神を継承する柳営会の一員として、德川恒孝 德川宗家第十八代当主にお仕えしている。

德川将軍家と甲賀百人組である遠藤宗家の由縁は深く、1582年(天正10年)本能寺の変から始まる。家康公は堺から京都に戻る途中、京都の呉服商、茶屋四郎次郎清延が本能寺の変の第一報を知らされた。京都へ戻るのは危険と判断し、明智光秀に拘束されずに三河へ戻るルートを選択しなければならず、甲賀組、伊賀組の護衛にて伊賀から伊勢へ出て、舟で三河に無事に帰還することができた。そのため「神君伊賀越えの危難」とされた。

『寛政重修諸家譜』巻一四一二に1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦の前哨戦として家臣の鳥居元忠は家康公の命により石田三成らの攻撃から伏見城を死守した際、甲賀百人組を編成させた。その第一陣の百名の一員として甲賀組 遠藤左太夫が駆けつけ、総勢三百名に達した。しかしながら、遠藤左太夫をはじめとする総勢一千八百人のほぼ全員が討死するも、西軍 石田三成は、三千人の討死者を出した。

このときの伏見城の血染め畳は、家康公が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに討死者の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。遠藤左太夫の位牌は、甲賀流忍術発祥の地である滋賀県甲賀市甲賀町の長福寺に保管されている。

家康公は、戦死者の子弟を集めて、与力十人、同心百人からなる甲賀百人組を編成させた。その後、家康公が江戸城に入府し、甲賀百人組に江戸城の本丸と百人番所を警備する大役を与えた。江戸城の本丸は、将軍の居館であるとともに、政庁でもあった。 本丸の大手門は厳重に固めた三つの門からなり、順々に開けたので「大手三門」と呼ばれた。「大手三門」は十万石以上の譜代大名及び甲賀百人組も同様にその任務を与えられた。甲賀武士は従来より、家康公の信頼が厚く、譜代に準ずる扱いとなった。


『德川実紀』には、【山岡備守景友入道、関ヶ原の戦いに味方勝利して、兇徒みな敗走するとき手の者引具し、城を出て川船にとりのり、大鳥居にさしかかる時、長束大蔵少輔家が敗走して来るにゆきあい、散々に打ちちらし、首百余切り桑原城に押し寄せ、氏家内膳正行広兄弟を降参せしめ、又神戸、亀山、水口等の城を請取り大津に参りしかば、大御所入道(家康公)がふるまいを感じ給うこと斜ならず。伏見にて討死せし甲賀士の子孫与力十人、同心百人を預けられ、近江国にて九千石の地を賜り、其内四千石を以て士卒の給分にあてられる。今の甲賀組はこれなり。】とある。

山岡景友は、関ヶ原合戦後、敗走してくる長束正家を討ち取り、方々にあった敵の城を請け取って戦後処理を手際よく済ませて、家康公を感服させ。この功により甲賀衆は一万三千石を賜り、これが甲賀組の起源となったと記されている。

遠藤宗家は德川家康公より、青山百人町にある青山甲賀屋敷、菩提寺である高徳寺を拝領した。青山百人町は、現在の表参道駅にある善光寺周辺に位置する旧町名。(現在の南青山/旧港区赤坂青山南町五丁目六丁目と同北町五丁目の一部)その後、千駄ヶ谷甲賀屋敷を拝領する。現在の千駄ヶ谷にある国立競技場。(昭和三十九年に開催されたオリンピックのメイン会場)の辺り。その他に青山権田原にも幕府から鉄砲演習場を拝領する。

その際に甲賀稲荷神社を建立しており、1885年(明治18年)、青山練兵場(現在の外苑)設置のために鳩森八幡神社に遷座、合祀されることになる。昭和初期に神主であられた矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、この鳩森神社も甲賀衆と縁のある神社で、1938年(昭和13年)5月に神社の前に安置した神像の中から、『御修覆記』並びに『奉納、甲賀百人姓名書』が発見される。この文書は、1847年(弘化4年)のもので甲賀組が米と金を寄進したという記事が伝えられてる。

その中に【御納戸同心 遠藤左太夫】と記されている。これは、明治時代に高徳寺檀家総代、甲賀稲荷神社氏子大惣代を務めた遠藤宗家 第十五代当主 遠藤榮の祖父である、遠藤宗家 第十三代当主にあたる。御納戸同心とは、德川将軍家の金銀、衣類、調度品などを管理する職務。

江戸城明け渡し以降、德川屋敷は現在の千駄ヶ谷にある全郵政会館付近に1877年(明治10年)約10万坪の土地に家屋があった。赤坂溜池の旧相良邸から、十三代将軍御台所の天璋院、十四代将軍德川家茂公生母の実成院、英国留学中の德川家達公は1882年(明治15年)帰国後から移住した。1917年(大正6年)新邸を落成する。敷地面積1万2千坪、建坪900坪、砂利を敷詰め、中央に植込み、建物は洋館、玄関に向かって左側は和風造りの式台付であった。庭の一部には総檜造り銅葦にて15坪の神殿が建てられた。御神体の御木像は、江戸城紅葉山にあったものを奉納する。新邸が落成するに併せ、旧邸の母屋付近に1887年(明治20年)明治天皇が行幸された碑が立っている。

甲賀稲荷神社を中心に新旧德川宗家邸、德川慶喜公四男の里夫人、遠藤宗家邸、遠藤宗家親戚である太田道灌の子孫が住んでいた。


■ 德川恒孝 
徳川宗家の当主。松平一郎の次男。学習院大学政経学部卒業。学位は経済学士(学習院大学)。元日本郵船副社長。公益財団法人徳川記念財団初代理事長。WWFジャパン代表理事。公益財団法人東京慈恵会会長。公益財団法人斯文会名誉会長。一般社団法人横浜港振興協会元会長。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校特別講演講師。公益財団法人日本美術刀剣保存協会名誉顧問。