遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

笄川と忍者屋敷

2018年05月18日
六本木通り(都道412号線)を越えると「笄橋」がある。この「笄橋」における伝承で有名なものに長者の子供たちの逢引話しがある。鎌倉から室町時代にかけて、黄金長者のお姫さまと白金長者の息子である銀王丸が笄橋で逢引をした、と「古郷帰江戸咄一」(1687年)に記されている白銀長者の屋敷は現在の白銀台にあり、国立科学博物館附属自然教育園には館跡と思われる土塁が残っている。

一方、黄金長者の屋敷は青山霊園の北側にあり、遠藤宗家 甲賀百人武士の屋敷があった青山百人町から始まる支流との合流地点(青山橋近辺)の北側には、姫下坂がある。『笄川』による沢地で坂が急峻で大岩があり危険だったため、逢引に出かける黄金長者の姫はこの坂のあたりで駕籠を下り徒歩で先を急いだ、という記述が「古郷帰江戸咄一」にある。

武士は、髪の乱れを直すため笄を脇差に挿して携帯していた。“笄”とは、髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具。笄を使い始めることで成人女性として扱われることも多く、笄で結い始める時の儀式である「笄礼(けいれい)」を成人式のように扱うこともある。『笄川』は、この“笄”より命名されたという説がある。

「江戸砂子」によると、939年平将門が起こした天慶の乱の際に清和源氏の初代となる源経基が、前司広雄によって『笄川』(江戸砂子では『竜川』)に設けられた関所を通過する際に、自分も将門の味方であり、軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中である旨の偽りを言い、身の証のために“笄”を渡して通ったとされる。その関所のあったところ(竜が関:牛坂下)の橋を「笄橋」と呼ぶようになった。最初は、板が渡してあるだけの簡素な橋だったが、後に欄干も設けられたと「新撰東京名所図会」に記されている。この「笄橋」のある町なので「笄町」となり、「笄町」を流れる川なので『笄川』と呼ばれたというのが一般的である。

その他の説として、徳川家康公が江戸入府に伴い組屋敷を拝領した甲賀組と伊賀組の境界の橋が、甲賀伊賀町→笄ヶ町→笄町に転化した諸説もある。(再版江戸砂子より)

笄町も西麻布四丁目となり、『笄川』は大正末期から昭和初期にかけて暗渠化され、「笄橋」もなくなるが、西麻布交差点から渋谷方面に伸びる「笄坂」や「港区立笄小学校」、「笄児童遊園」や「笄公園」などに“笄”の名が今も残っている。


■ 青山の由来
青山地区と神宮前、新宿区南部一帯。中央の東西を横断する道は「大山詣り」の大山道(青山通り)。通り沿いの百人町は、鉄砲隊・百人組の組屋敷。通りを離れた青山大膳亮は、美濃郡上藩青山家の下屋敷。現在の青山霊園で、青山の地名の由来となった。梅窓院は青山家、高徳寺は遠藤宗家の菩提寺。畑地に記される長者ヶ丸とは、白金の「白金長者」に対する渋谷の「黄金長者」の邸跡の言い伝え。伊予西条藩・松平左京太夫の屋敷を過ぎれば、宮益町・道玄坂へと到る。