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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
徳川将軍家鉄砲百人組
2018年08月22日
遠藤宗家の先祖である「甲賀百人組」は、伏見籠城の功績をもって徳川将軍家から禄を受け、寛永年間に甲賀から江戸へ移住した。
鉄砲百人組は、徳川将軍家の親衛隊として若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)として、4名からなる組頭の下に同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職であったため、譜代大名扱いの徳川将軍家直参御見目得旗本とされた。
4組とは、組頭が旗本譜代席の「甲賀組」と「根来組」、組頭が抱席の「二十五騎組」と「伊賀組」から編成されていた。天正13年(1585年)、徳川家康に仕えていた成瀬正成の下に根来衆50名が配されたのが後の百人組の原形とされる。根来衆は後に同心100名となる根来組となり、家康公の関東入府である天正18年(1590年)後、内藤新宿に配備され、四谷の正成の指揮下で甲州路の防衛に従事した。
根来組の次に古いとされる甲賀組は、関ヶ原の戦いで活躍し、伏見城の戦いで戦死した山岡景友の甲賀衆子弟から与力10騎と同心100名を配下とした。江戸幕府成立後は、青山甲賀屋敷から千駄ヶ谷に屋敷を移転した。現在の国立競技場である権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の一つである百人番所の警備を担当した。
伊賀組の編成は慶長6年(1601年)とされている。本能寺の変の際に、家康公の伊賀越えの際、道中を警護した伊賀忍者の子孫から構成された。伊賀同心が組頭の服部正成(二代服部半蔵、父の初代半蔵の保長は忍者)の組下に置かれたのは家康公の関東入府時とされる。
二十五騎組は、慶長7年(1602年)に内藤清成が与力25騎と同心100名を預けられ、組屋敷を内藤新宿及び大久保に設けたことが始まりとされている。このため、二十五騎組は別名「大久保組」とも呼ばれた。
鉄砲百人組の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行った。徳川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際、山門前警護を行った。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。
鉄砲百人組は、徳川将軍家の親衛隊として若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)として、4名からなる組頭の下に同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職であったため、譜代大名扱いの徳川将軍家直参御見目得旗本とされた。
4組とは、組頭が旗本譜代席の「甲賀組」と「根来組」、組頭が抱席の「二十五騎組」と「伊賀組」から編成されていた。天正13年(1585年)、徳川家康に仕えていた成瀬正成の下に根来衆50名が配されたのが後の百人組の原形とされる。根来衆は後に同心100名となる根来組となり、家康公の関東入府である天正18年(1590年)後、内藤新宿に配備され、四谷の正成の指揮下で甲州路の防衛に従事した。
根来組の次に古いとされる甲賀組は、関ヶ原の戦いで活躍し、伏見城の戦いで戦死した山岡景友の甲賀衆子弟から与力10騎と同心100名を配下とした。江戸幕府成立後は、青山甲賀屋敷から千駄ヶ谷に屋敷を移転した。現在の国立競技場である権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の一つである百人番所の警備を担当した。
伊賀組の編成は慶長6年(1601年)とされている。本能寺の変の際に、家康公の伊賀越えの際、道中を警護した伊賀忍者の子孫から構成された。伊賀同心が組頭の服部正成(二代服部半蔵、父の初代半蔵の保長は忍者)の組下に置かれたのは家康公の関東入府時とされる。
二十五騎組は、慶長7年(1602年)に内藤清成が与力25騎と同心100名を預けられ、組屋敷を内藤新宿及び大久保に設けたことが始まりとされている。このため、二十五騎組は別名「大久保組」とも呼ばれた。
鉄砲百人組の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行った。徳川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際、山門前警護を行った。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。