遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤宗家と楠木正成公

2019年01月07日
遠藤宗家の先祖である甲賀忍者は、かつて楠木正成公の家臣として活躍した。特に伊賀・甲賀忍者は多数おり、直臣の四十八人衆は、諜報・謀略・ゲリラ戦において貢献した。

楠木正成公のような土豪が、鎌倉幕府の討幕、後醍醐天皇の親政に関わりを持てたのは、伊賀・甲賀忍者の諜報活動があったからとされている。

楠木公は、これらの忍者を透波(スッパ)と呼び、京・大阪・神戸に常駐させ、常にその情報を得ていた。そして“いざ”という事態に備え、その戦略・行動方法を練っていたと思われる。討幕時や足利尊氏との戦いの原動力は、このスッパの活躍に負うところが大きかった。現代において、他人の秘密を公にすることを「スッパ抜く」と言う語源は楠木正成の名づけが由来である。

楠木公が忍者を活用したことにより、忍者の存在を大きく認知させた戦いが千早城の戦い(1333年)である。現在、大阪府千早赤坂村に位置する山城である。鎌倉幕府は、討幕を志す討幕派の一人として楠木正成を血祭りにあげようと、北条一族を主体とした幕府軍を編成し、楠木正成軍1,000人に対してほぼ100倍の10万人を動員した。

楠木公は各地に放った忍者の情報を分析し、敵の兵力、士気、弾薬、攻撃通路、攻撃方法、食糧の確保状況等を掌握し準備に入った。兵力差から判断し、山城を出て戦うよりも籠城戦を選んだ。この作戦をとった根拠は、彼の放った忍者の正確な情報がなければ決戦に勝てるという決断もできなかった。

伊賀・甲賀の忍者の情報戦術により、幕府軍を戦線の離脱者を含めてほぼ全滅させたのである。幕府軍は烏合の集団となり、自らの判断で自分の領国に引き上げていった。10万の幕府軍に、楠木公はたったの1,000人で大勝利したのである。鎌倉幕府の権威は失墜し、執権北条高時は、鎌倉に取り残された。執権の権威などは、まったく通用しなかった。このとき、足利尊氏・新田義貞が鎌倉に攻め込んだが、執権北条高時は逃げて行方不明となり、鎌倉幕府はあっけなく滅亡した。


■ 楠木正成
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。