遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

長崎素介 宮内判任官

2019年01月28日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚である宮内省(現宮内庁)宮内属の長崎素介は、宮内判任官として天皇家にお仕えした。

長崎素介宮内判任官は、1923年(大正12年)9月1日に神奈川県相模湾北西部で発生した関東大震災により死者・行方不明者数が15万5千人を超える日本史上最大規模の災害により、皇室の方々の思召を体して震災対策・被災者救援に奔走した。

当時、摂関のお立場であった皇太子裕仁親王は、日光で御静養中の大正天皇に代わって、この大震災にご対応された。この発災後、摂関宮は宮城(皇居)から赤坂離宮広芝御茶屋へ避難され、翌日には余震が続く中、内閣総理大臣の親任式に臨まれた。震災当日より天皇・皇后、摂関宮は、震災直後の交通機関が麻痺した状況下において一刻も早く正確な被害状況を把握すべくお努めになった。

長崎素介宮内判任官は、天皇・皇后の思召により1923年(大正12年)9月11日勅使として千葉県(館山、北条、船形、那古)へ御差遣されたことが、大臣官房庶務課「震菜災録」、「皇視録」及び秘書課「進退録」、主馬寮「御料車馬録」に記されている。

判任官とは、明治時代から第二次世界大戦敗戦までの官吏の身分上の等級。属官ともいう。1869年(明治2年)官吏を勅任官、奏任官、判任官に区分し、ついで1871年(明治4年)官等一五の制を定め、三等以上を勅任、七等以上を奏任、以下を判任とした。判任官については、1886年(明治19年)および1911年(明治44年)の判任官官等俸給令によって詳細な規定がたてられた。判任官は、天皇が官庁に任免を委任するもので、高等官(勅任官、奏任官の総称)の下に置かれ、一等から四等に分けられ、各省大臣、府県知事の権限により任免された。第二次大戦敗戦後、1946年(昭和21年)公布の官吏任用叙級令によって三級官と改称されたが、49年の人事院規則によって廃止された。『内閣官房『内閣制度九十年資料集』1976年(昭和51年)』

宮内省は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。古代の宮内省は、律令制で規定された八省のひとつ。和名は「みやうちのつかさ」。太政官の右弁官局の被官で、はじめ1職4寮13司、のち統廃合されて1職5寮5司の官司を所管し、宮廷の修繕や食事、掃除、医療などの庶務一切を務め、天皇の財産を管理した。

内閣制度以降の1885年(明治18年)に太政官が廃止され内閣が設置されると、皇室が内閣総理大臣に制約されないようにするため内閣から独立、長官として宮内大臣が置かれ、最後の宮内卿伊藤博文が初代総理大臣と兼職した。 1889年(明治22年)、大日本帝国憲法発布とともに皇室典範が制定されると、宮内省は皇室自立の原則に従って独立官庁として次第に拡充、1908年(明治41年)には宮内省官制が施行された。

日本の降伏による第二次世界大戦終戦時には大臣官房と2職8寮2局の内局と多くの外局に6000人を越える職員を抱え、天皇および皇族、朝鮮王公族(元大韓帝国皇帝の李王家)の日常生活、教育、財産管理などあらゆる側面を支える官庁へと拡大していたが、戦後、連合国軍占領下で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要求により縮小され、職員は1500人まで削減された。これにともない大部分の業務は他部局に移管された。たとえば皇室財産の大部分を占めた御料林は国有林となり林野庁の管轄となり、宮内省管轄であった学習院は私立学校となった。

1947年(昭和22年)、日本国憲法の施行とともに内閣総理大臣所管の機関として宮内府に改められ、さらに1949年(昭和24年)に総理府の設置にともなってその管轄下の外局となり、宮内庁に改められた。2001年(平成13年)の中央省庁再編に伴い、法的な位置づけが「総理府の外局」から「内閣府に置かれる機関」(外局とは別格)となった。



■ 長崎素介
1879年(明治12年)生まれ。明治39年宮内省仕人、大正6年宮内属判任官、昭和17年式部官などを歴任。遠藤潔の母方祖父である弁護士の橋本三郎(士族)の親戚。