遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

内海碩夫 第二海軍燃料廠電解技術官

2019年06月14日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚である第二海軍燃料廠の内海碩夫電解技術官は、四日市海軍に従事した。(現在の昭和四日市石油、三菱化学、石原産業、日永、泊山、塩浜)

海軍工廠(かいぐんこうしょう)とは、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことである。ほかに海軍が直営する軍需工場としては、航空機の修理整備(末期には製造)を担当する航空本部所管の「空廠」、火薬製造・充填を担当する艦政本部所管の「火薬廠」、石炭採掘や石油精製を担当する艦政本部所管の「燃料廠」、軍服・保存食製造を担当する軍需局所管の「衣糧廠」、医薬品・医療機器の製造を担当する医務局所管の「療品廠」がある。

海軍工廠は造船所を中心に発足し、海軍鎮守府の直轄組織とされた。横須賀鎮守府では、江戸幕府が設置し「製鉄所」「造船所」などと呼ばれていた横須賀造船所を接収したが、艦艇のみでなく民間船舶の修理なども長い間行なっていた。呉鎮守府では、神戸の小野浜造船所を管轄し、ここを閉所して機材を呉に移し、呉造船所を開設した。佐世保鎮守府および舞鶴鎮守府では、鎮守府用地に造船所を新設した。また兵器・需品を製造する造兵廠は東京と呉に設置し、横須賀・佐世保・呉では保管を担当する武庫を設置して管理した。

第二海軍燃料廠は海軍が昭和14年(1939年)頃から土地を買い上げ、戦争に備えて原油を2万5,000バーレルもの処理が可能な製油所と、ロケット燃料(過酸化水素水混合液)貯蔵場、宿舎を施工期間昭和14年(1939年)~昭和20年(1945年)に完成させた。昭和16年(1941年)4月に日永、白髪神社宮司により修抜の儀、海軍からは別府中将、渡辺、藤田少将、3名の大佐他多数の参列により開廠式が行われ操業が開始された。

燃料廠内は、囚人作房・重油倉庫1棟500坪(12棟延べ6,000坪)日永地区将校会議所・同茶室、塩浜地区工員宿舎(1棟2戸)50棟、塩浜地区下士官宿舎15棟、日永地区工員宿舎250棟(1棟2戸)、日永地区高等官舎50棟、日永地区工員独身寮2棟共同浴場2ヶ所、日永地区廠長宿舎、日永地区会計部長官宿舎等を完備していた。続いて、燃料を備蓄のため、昭和19年(1944年)7月頃から戦闘機「秋水」の過酸化水素水料工場(1階鉄筋コンクリート2階木造1,215㎡2棟)を建設12月に完成させた。それらを備蓄するため、秘呂(トンネル)工事を昭和19年(1944年)10月から朝日谷に幅4.5m高さ115mと130mの2ヶ所を建設し終戦を迎えた。

海軍は民間企業への引渡準備を開始し、昭和30年(1955年)8月26日の閣議で、四日市旧海軍燃料廠は三菱グループとシェルグループに、徳山旧海軍燃料廠は昭和石油と出光興産に、岩国旧陸軍燃料廠は三井グループと日本鉱業にそれぞれ払い下げることに正式決定された。しかし昭和20年末の時点では一括して日本肥料株式会社が払い下げを受けた。つぎの問題として日本肥料が自ら経営するのか、民間企業に依托するのかということがもちあがったが、第二海軍燃料廠は日本肥料が直営、第三海軍燃料廠は日本窒素が受け持ち、岩国陸軍燃料廠は三菱化成が担うことになった。技術を持ち合わせていない日本肥料には工場を建設・運営していく経営能力はなかった。そこで依托が検討されたのであるが、四日市第二海軍燃料廠の場合は日本肥料が直営するということになり、第二海軍燃料廠から日産化学工業へ移籍した内海碩夫電解技術者など多数の技術者が工場建設・操業に携わった。

化学肥料の敗戦後の生産量は開戦前の年度と比べると低い生産量である。しかし、肥料関連企業は早急に設備拡充を図り、年々実績を上げている。いわゆる傾斜生産方式決定以前に、肥料メーカー・農林省・海軍・化学工業統制会によって肥料増産が検討され、肥料の増産が図られていた。肥料メーカーは敗戦の月の入月から生産計画・増産計画の立案に入っていた。農林省や化学工業統制会も協力した。加えて軍工廠を擁する陸海軍も「国民生活安定並二民力酒養しのために設備・資材の民間への払い下げを企図した。さらに占領実施部隊主力の第八軍は、円滑な物資の転用に協力的であった。このような環境下、肥料関連企業は、他産業に比べて容易に資材を調達し、生産活動に向け始動した。

爆撃被害の大きかった昭和電工は、復旧を急ぎ、昭和20年(1943年)以降生産量が増強した。一方被害の少なかった日産化学工業は第二海軍燃料廠転換はじめ他企業に技術供与を通じて協力するとともに事業の拡大を試みた。第二海軍燃料廠の硫安工場への転換過程軍需から民需への転用および民間への払い下げは、日本肥料株式会社の解散後、主に日産化学工業・日本肥料・海軍という異なる構成からなる東海硫安工業株式会社が昭和23年(1946年)に誕生した。

旧第二海軍燃料の内海碩夫廠電解技術官は、日産化学工業から東海硫安工業四日市工場の製造部電解課長、工場長、早稲田応用化学会理事などを歴任し、戦後の国内アグロビジネス産業に寄与した。


■ 内海碩夫
遠藤武 第十六代当主遠藤宗家の実妹である正枝の当主。(長女/廣子、次女/義子)。
海軍省第二海軍燃料廠電解技術官(四日市海軍)、日産化学工業から東海硫安工業四日市工場製造部電解課長、工場長、早稲田応用化学会理事等を歴任。平成24年(2014年)9月12日没。海軍燃料廠:明治38年(1905年)臨時海軍煉炭製造所条例制定、山口県徳山煉炭製造所設立、大正10年(1921年)海軍燃料廠制定、昭和6年(1931年)燃料研究所設立、昭和10年(1935年)徳山海軍燃料廠九四式分解解蒸留装置完成、昭和12年(1937年)徳山海軍燃料廠九六式水添分解装置完成、昭和14年(1938年)四日市海軍燃料廠建設着工、昭和20年(1945年)徳山第三海軍燃料廠が空爆被害、昭和30年(1955年)通産省旧陸軍燃料廠跡地処理方針閣議決定、昭和32年(1957年)四日市海軍燃料廠跡地昭和四日市石油へ払下。