遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

太田道灌 武蔵守護代

2019年06月20日
遠藤 潔 第十八遠藤宗家の親戚である太田道灌公は、中世の江戸氏の居館跡に、長禄元年(1457年)に江戸城を築城した。その後、天正18年(1590年)の徳川家康公関東移封入城後、3代将軍家光公に至る数回の工事で完成した。その後、数度の火災と改修を繰り返したが、本丸は幕末に焼失。明治になって皇居となり、西の丸跡に宮殿が建てられた。富士見櫓・伏見櫓・桜田二重櫓のほか多くの城門が現存する。

遠藤宗家は甲賀武士として、江戸城大手三の門の警備を受け持っていた。大手中の門の枡形を通り過ぎると左手に大手三の門の警備を担当していた鉄砲百人組の百人番所がある。百人番所は長さ約50メートルの大きな建物である。ここに、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組の鉄砲百人組が昼夜交替で詰めていた。各組には各20騎の与力と100人の同心が配置されていた。百人蕃所は「中の門」の目の前にあるので、「中の門」の警備のためにあるように見えるが、「中の門」の警備は持弓組と持筒組が担当していた。

鉄砲百人組は、二十五騎組、伊賀組、根来組、甲賀組の四組からなり、二十五騎組の与力が25騎で、他の三組は 与力が20騎で、鉄砲同心は各組に百人ずつ配属された。そのため、百人組と呼ばれた。その人員も編成当初は組名の通り、伊賀・甲賀・根来衆といった鉄砲の扱いに優れた者を召抱えた。 鉄砲百人組は平時は主に江戸城大手三の門に詰め、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際は山門前を警備した。

甲州街道は徳川家康公の江戸入府に際し、江戸城陥落時は甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定されていた。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に百人組屋敷を連ねた。また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためとされた。

大奥の瀧山氏(本名:大岡多喜)は、文化3年(1806年)伊賀鉄砲百人組の大岡権左衛門の長女として、四谷南伊賀町にて誕生した江戸幕府十三代将軍徳川家定公・十四代家茂公時代の将軍付御年寄である。慶応2年(1866年)に家茂公が亡くなった際、御年寄職を辞職し 、現在の埼玉県川口市で過ごした。晩年は、侍女であった仲野氏を夫婦養子に迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興した。明治9年(1876年)72歳で没。 法名は瀧音院殿響誉松月祐山法尼。墓所は歴代将軍による日光社参の際の休憩所と定められた、由緒と格式をもつ川口市内の宝珠山地蔵院錫杖寺(御朱印寺領二十石を賜る)にある。七堂伽藍は、遠藤 潔 第十八遠藤宗家の親戚である太田道灌公が建立した。

太田資暁太田道灌公十八代は、東京海上専務、東京海上あんしん生命社長を経て、現在は出光興産監査役などを歴任。「NPO法人 江戸城再建を目指す会」、「太田道灌公墓前祭実行委員会」では会長を務め、遠藤宗家と歴史を継承する活動に取り組んでいる。


■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。里子は、遠藤武遠藤宗家第十五代当主夫人。
室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。