遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

永田禄郎 永田家当主

2019年07月24日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の弟壽と妻冨美の長女美保子の夫である永田禄郎永田家当主は、四谷一帯の徳川幕府直轄領地が明治維新後に民有地となり茶畑・桑畑となったことから、日本茶販売店の香花園を創業した。

現在の四谷はかつて紀州徳川家の上屋敷であった「赤坂御用地」、信濃高遠藩内藤家の下屋敷であった「新宿御苑」、青山練兵場の跡地に造られた「明治神宮外苑」など、広大な敷地の施設が多くあり、緑豊かな環境に整備されている。

徳川幕府直参旗本家の遠藤宗家甲賀百人組は、戦国から江戸時代時代に活躍した徳川家康公から徳川将軍家の警護役として活躍したことで、日本茶とゆかりが深い。

徳川家康公は、幼い時期や晩年を駿河(現在の静岡県中部から東部にかかる地域)で過ごした。1607年(慶長12年)大御所となられて駿府城に入城した家康公は、駿河でつくられる安倍茶を嗜まれた。当時、お茶蔵や道中にあたる集落には、大事な御用茶として、その保管、運搬にあたる役人を特別職として配置させた。
 
本山茶の起源は鎌倉時代に東福寺を開山した聖一国師が、安倍山の「足久保」に種を蒔いたのがはじまりと伝えられており、本山茶が生産されている足久保地域は静岡で最も歴史のある産地である。本物のお茶と言う意味を込め、安倍茶から本山へと名前が変更された。天和元年からは、「御用茶」として徳川幕府に納められるようになり、第十五代徳川慶喜公も愛飲されていた。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。