遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

朝倉崇 朝倉家当主

2019年07月25日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖父である遠藤武第十六代当主の妻里子の姉好子の長男である朝倉崇朝倉家当主一族は、その祖先一族が武士として活躍した阿佐谷地主である。

応永二年(1395年)朝倉家先祖である武将の朝倉三河守が阿佐谷で帰農した際、杉並の天沼熊野神社の社殿を修理し、十二所権現と称されるようになった。明治四年の太政官布告「官社以下定額及神官職員規則」により熊野神社と改称し、明治七年村社に列格した。

寛永十二年(1635年)徳川家光公が、赤坂の日枝神社にお参りした時、「ご奉納として、阿佐谷村、天沼村、堀の内村、下荻窪村の四村をさしあげた。」とある。それ以前の那智の米良文書、応永二十七年(1420年)には「武蔵国江戸の惣領之流」の中に「あさかやとの」(武士の江戸一族の中に阿佐谷に住んで居る一族が居る。との意味)とあり、この時期にはこの一帯がすでに「あさがや」と呼ばれていたことが分かる。これは、遠藤宗家の縁戚である太田道灌公の築城に先立つ約40年以前である。
 
中世の周辺一帯は現在の石神井公園を本拠地(発祥は現在の北区)とする豊島氏と、現在の東京駅周辺に城を構えていた江戸氏が勢力争いを繰り広げていた。荻窪の旧家に豊島氏の支配下にあった記録が残ることから、阿佐谷は両者の勢力が拮抗する最前線であったとされる。その後長く江戸氏と豊島氏の勢力争いは続き、江戸氏の支配を受け継いだ太田道灌公と、豊島泰経・泰明兄弟が文明九年(1477年)に現在中野区の江古田・沼袋で合戦となった。足軽(歩兵)戦術に優れた太田道灌公が数で勝る豊島勢を圧倒し、石神井城に追い詰められた豊島一族は滅亡した。阿佐谷を含む一帯は、太田道灌公による支配が確立された。

しかし、長く続く戦乱と北条氏(小田原を本拠地とし北条早雲を祖とする)の進出により阿佐谷一族は、歴史の渦の中に飲み込まれ、天文九年代(1540年代)に記録された「阿佐谷二郎」の名を最後に歴史の舞台から消えていった。その後、北条氏が滅亡して徳川家康公が江戸に入府したため、阿佐ヶ谷一帯も「阿佐ヶ谷村」として幕末まで徳川幕府の支配下に入ることとなった。

【 阿佐谷南三丁目共同墓地・朝倉崇家所蔵板碑 】 有形文化財(古文書)
上半部から下半部にかけて左側面を欠損している長さ45cm、幅110cmの板碑は、種子・蓮座下の中央に一花瓶を配し、その左右に延文二年(1357年)11月の造立年代を記す、一花瓶様式である。区内におけるこの様式の板碑分布は、阿佐谷地域をも通る伝鎌倉街道に沿って集中しており、年代的には延文・貞治期のものが多く、そのほとんどが粗製品である。この板碑もその一つで、造りは粗製である。造立年代は表面の風化が著しく、延文二年と読める。長さ30cm、幅22cmで下半部を欠失した板碑は、上部のみの遺存のため造立年代等の銘文は不明。しかし、わずかに残された部分の二条線や梵字などにみられる様式上の考察から、本板碑は阿佐谷北の法仙庵境内にあり正和・文保年代(1312年~19年)のものと同一様式で、おそらく鎌倉時代末期の製作と推察される。正確な造立年代は不明ながら、この板碑は阿佐谷地域に残存する板碑の中では、古い様式に属する。

[ 登録年月日 ] 平成二年三月三一日
[ 種   別 ] 有形文化財(古文書)
[ 名   称 ] 阿佐谷南三丁目共同墓地・朝倉崇家所蔵板碑
[ 点   数 ] 二基
[ 所有者など ] 朝倉家
[ 所有地など ] 阿佐谷南三―三五(共同墓地)


■ 朝倉崇
遠藤潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三石神井村村長(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)と妻セイ(貞明皇后女官)の次女好子(長男正雄、長女孝子、三女里子)の長男。栗原家は、石神井の有力地主。明治45年に発足した武蔵野鉄道(現西武池袋線)の開通に向け、石神井公園駅駅舎敷地の五千余坪を寄付し、鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻み、石神井火車站之碑を大正9年に造立された。現在、石神井公園駅 南口に「石神井火車站之碑」が建立されている。栗原家長屋門(現在も門として使用)は、練馬区観光協会ガイドマップの石神井公園の歩行ルートとして掲載されている。