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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
太田資英 画家
2019年08月02日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚であり中世の江戸氏の居館跡江戸城を築城(長禄元年/1457年)した太田道灌公の子孫である太田資英画家は、近代日本の美術に大きな足跡を残した黒田清輝画家に感銘し、明治中期の洋画界を革新させた。
太田資英画家が黒田清輝画家から影響されたのは外光表現だけではなく、「智・感・情」(Wisdom,Impression,Sentiment)、「昔語り」(Talk on Ancient Romance)など、アカデミズムとしての「構想画」(grand composition)の制作をこころみるなど、本格的な西洋絵画の移植につとめたところであった。黒田清輝画家の後年は、絵画制作のかたわら、貴族院議員(位階:従三位、勲等:勲二等、爵位:子爵)や帝国美術院長を歴任し、美術行政家として活躍した。
独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所の母体となった帝国美術院附属美術研究所は、黒田清輝画家の遺言によって設立された。「湖畔」明治30年(1897年)などの作品で知られる黒田清輝画家は、大正13年(1924)年7月、不動産の三分の一を美術奨励事業に出捐すること、樺山愛輔、久米桂一郎、打田伝吉(弁護士)を遺言執行人とするよう遺言した。
遺言執行人となった樺山愛輔は、黒田清輝画家の養父である黒田清綱の娘千賀子の嫁家、橋口家の血縁になる。黒田清輝画家よりも一年年長で、明治13年(1880年)に渡米して同地で大学を卒業しており、生涯、日米交流に尽くした。現在の国際文化会館の創立にも尽力している。
久米桂一郎は洋画家、美術教育者でもあり、黒田清輝画家の朋友でもあった。久米は、明治17年(1884年)に法律学習を目的としてパリに渡った黒田清輝画家に2年遅れて、画学を学ぶためにパリに留学し、ともにアカデミー・コロラッシ(Academie Colarossi)でラファエル・コラン(Raphael Collin)に師事した。佐賀藩士で『米欧回覧実記』(東京・博聞社、明治11年・1878年)の編者として著名な久米邦武の嗣子で、黒田清輝画家と同様、幕末雄藩に生まれた。黒田清輝画家と同年でもあったことから、出会って間もなくともに行動するようになっていることが、『黒田清輝日記』(中央公論美術出版、昭和41年~43年・1966~68年)、『久米桂一郎日記』(中央公論美術出版、平成2年・1990年)などにも表われている。パリ滞在中に共同生活を送っており、明治26年(1893年)夏に同じ船で帰国。その後も黒田清輝画家と共に白馬会を結成し、画家としての活動のみならず美術教育、美術行政においても黒田清輝画家の同志であり続けた。
『黒田清輝日記』には、黒田清輝画家と太田家が親交が深かった記録が、東京文化財研究所当研究所に保管されている。尚、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改められている。
【 黒田清輝日記 】全四巻(中央公論美術出版、昭和41年~43年・1966~68年)
1919(大正8) 年8月17日
八月十七日 日 曇 (鎌倉)
一、吉岡君ヨリ書状 一、伊人ペツシー氏ヨリ油絵値段付届ク 一、互評会記録出来(留守宅ヨリ) 一、訪客ハ太田資英(下図持参) 子爵松平乘長君 孝 三郎 雨中ノ海好画材ナリ〔図 写生帳より〕
1919(大正8) 年9月4日
九月四日 木 晴 (鎌倉)
雨潤会其他ノ用事気ニナリテ帰京センカト思ヒ煩ヒタレドモ結局手紙ニテ弁ズル事トシ午後君子ニ筆ヲ執ラセテ知足ニ八ケ条許申送リ又電話ヲ掛ケシム 夕刻太田資時氏夫妻打連帰京ノ暇乞ニ見ユ
※太田資時(初代・代言人)
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚。代言人とは、弁護士の旧称。江戸時代の公事師に代わるもので,1872年司法職務定制により民事について置かれたが、1882年治罪法施行により刑事代言人も設置。1876年代言人規則を制定。1893年(旧)弁護士法の施行により、弁護士に代わった。
■ 太田資英
遠藤潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三石神井村村長(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)と妻セイ(貞明皇后女官)の長女孝子(長男正雄、次女好子、三女里子)の夫。太田資英当主と妻孝子の長男資和、長女京子。栗原家は、石神井の有力地主。明治45年に発足した武蔵野鉄道(現西武池袋線)の開通に向け、石神井公園駅駅舎敷地の五千余坪を寄付し、鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻み、大正9年に造立された。現在、石神井公園駅 南口に「石神井火車站之碑」が建立されている。栗原家長屋門(現在も門として使用)は、練馬区観光協会ガイドマップの石神井公園の歩行ルートとして掲載されている。
太田資英画家が黒田清輝画家から影響されたのは外光表現だけではなく、「智・感・情」(Wisdom,Impression,Sentiment)、「昔語り」(Talk on Ancient Romance)など、アカデミズムとしての「構想画」(grand composition)の制作をこころみるなど、本格的な西洋絵画の移植につとめたところであった。黒田清輝画家の後年は、絵画制作のかたわら、貴族院議員(位階:従三位、勲等:勲二等、爵位:子爵)や帝国美術院長を歴任し、美術行政家として活躍した。
独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所の母体となった帝国美術院附属美術研究所は、黒田清輝画家の遺言によって設立された。「湖畔」明治30年(1897年)などの作品で知られる黒田清輝画家は、大正13年(1924)年7月、不動産の三分の一を美術奨励事業に出捐すること、樺山愛輔、久米桂一郎、打田伝吉(弁護士)を遺言執行人とするよう遺言した。
遺言執行人となった樺山愛輔は、黒田清輝画家の養父である黒田清綱の娘千賀子の嫁家、橋口家の血縁になる。黒田清輝画家よりも一年年長で、明治13年(1880年)に渡米して同地で大学を卒業しており、生涯、日米交流に尽くした。現在の国際文化会館の創立にも尽力している。
久米桂一郎は洋画家、美術教育者でもあり、黒田清輝画家の朋友でもあった。久米は、明治17年(1884年)に法律学習を目的としてパリに渡った黒田清輝画家に2年遅れて、画学を学ぶためにパリに留学し、ともにアカデミー・コロラッシ(Academie Colarossi)でラファエル・コラン(Raphael Collin)に師事した。佐賀藩士で『米欧回覧実記』(東京・博聞社、明治11年・1878年)の編者として著名な久米邦武の嗣子で、黒田清輝画家と同様、幕末雄藩に生まれた。黒田清輝画家と同年でもあったことから、出会って間もなくともに行動するようになっていることが、『黒田清輝日記』(中央公論美術出版、昭和41年~43年・1966~68年)、『久米桂一郎日記』(中央公論美術出版、平成2年・1990年)などにも表われている。パリ滞在中に共同生活を送っており、明治26年(1893年)夏に同じ船で帰国。その後も黒田清輝画家と共に白馬会を結成し、画家としての活動のみならず美術教育、美術行政においても黒田清輝画家の同志であり続けた。
『黒田清輝日記』には、黒田清輝画家と太田家が親交が深かった記録が、東京文化財研究所当研究所に保管されている。尚、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改められている。
【 黒田清輝日記 】全四巻(中央公論美術出版、昭和41年~43年・1966~68年)
1919(大正8) 年8月17日
八月十七日 日 曇 (鎌倉)
一、吉岡君ヨリ書状 一、伊人ペツシー氏ヨリ油絵値段付届ク 一、互評会記録出来(留守宅ヨリ) 一、訪客ハ太田資英(下図持参) 子爵松平乘長君 孝 三郎 雨中ノ海好画材ナリ〔図 写生帳より〕
1919(大正8) 年9月4日
九月四日 木 晴 (鎌倉)
雨潤会其他ノ用事気ニナリテ帰京センカト思ヒ煩ヒタレドモ結局手紙ニテ弁ズル事トシ午後君子ニ筆ヲ執ラセテ知足ニ八ケ条許申送リ又電話ヲ掛ケシム 夕刻太田資時氏夫妻打連帰京ノ暇乞ニ見ユ
※太田資時(初代・代言人)
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚。代言人とは、弁護士の旧称。江戸時代の公事師に代わるもので,1872年司法職務定制により民事について置かれたが、1882年治罪法施行により刑事代言人も設置。1876年代言人規則を制定。1893年(旧)弁護士法の施行により、弁護士に代わった。
■ 太田資英
遠藤潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三石神井村村長(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)と妻セイ(貞明皇后女官)の長女孝子(長男正雄、次女好子、三女里子)の夫。太田資英当主と妻孝子の長男資和、長女京子。栗原家は、石神井の有力地主。明治45年に発足した武蔵野鉄道(現西武池袋線)の開通に向け、石神井公園駅駅舎敷地の五千余坪を寄付し、鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻み、大正9年に造立された。現在、石神井公園駅 南口に「石神井火車站之碑」が建立されている。栗原家長屋門(現在も門として使用)は、練馬区観光協会ガイドマップの石神井公園の歩行ルートとして掲載されている。