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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
佐野良彦 サノ・トレーディング社長
2019年08月30日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚であるサノ・トレーディングの佐野良彦社長は、1976年(昭和50年)東京大学考古学部・文学士を卒業後、1988年8月株式会社サノ・トレーディングを設立した。ダイアモンド1ピースからネット販売する先駆者として、ダイアモンドは0.1ct台から2キャラットを取り扱い、総数569ピースを越える実績を誇る。ダイヤモンドは全てAGT、中央宝石研究所や全国宝石学協会などのソーティングを実施し、信用を確立した。
現在、東京大学大学院人文社会研究学科考古学専攻・修士課程として、日本における装身具(縄文耳飾)の歴史を調査・研究している。考古学とは、人類の歴史を遺跡や遺物を通じて明らかにする学問である。おもに文献を通じて明らかにする文献史学とともに、歴史学の一翼を担っている。したがって、文字のない時代の研究は、遺跡とそこから出土した遺物を分析することが考古学固有の研究方法であり、発見の喜びも加わって考古学の醍醐味ともなっている。そのためには、遺跡を発掘する能力や遺物を観察する考古学独自の能力を身につけなくてはならない。
日本において、装身具は呪術的な意味を持つシンボルとして縄文時代から古墳時代にかけて広く普及し、指輪、耳飾、腕輪、首飾、足飾など多数の形状の装身具が各地の墳墓より出土している。しかし、奈良時代以降、明治時代に至るまでの約1100年間、これらの装身具は忽然と姿を消した。海外からの文化移入という形で復活を果たした装身具は日本の近代化思想と相俟って爆発的な普及を果たし、今日に至っている。
縄文時代の遺跡から出土されている動物の牙やヒスイを用いた装身具の目的や用途は解明されていない点も多く、はっきりとは判っていない。装飾的な意味合いよりも魔除や呪術的な意味合いが強く、特に動物の牙を身に着ける行為に関して国立歴史民俗博物館の春成秀爾は自著『古代の装い』(1997年、講談社)の中で、「狩猟での成功を祈願した豊穣信仰の現れではないか」と推察している。また、新潟県の姫川・青海川を原産地とし、主に呪具として加工されたヒスイ製の装身具は北海道から朝鮮半島に至るまでの広範囲から出土しており、装身具が交易品として流通していた事実を示している。
ヒスイは動物の犬歯を模した勾玉として加工されたヒスイ製勾玉が特に知られており、竹と水を用いて孔を開け、アクセサリーとして身に着けた。勾玉文化は弥生時代に至るまでの東日本で広く見られ、一時的な断絶を経て古墳時代に全盛期を迎えた。材料は時代を追うごとに多様化し、碧玉、メノウ、ガラスなどの勾玉が登場している。
縄文時代には石を円形に刳り抜き、一部を削り取った玦状耳飾や、耳栓状耳飾が出土しており、主に女性の耳朶を穿孔してその孔に装着したと考えられている。これは中国との交流によって日本に移入された文化と推察され、人生の節目を自覚させるため、結婚や成人など通過儀礼の際に用いられたと指摘されている。しかし、この風習は弥生時代に入る頃にはほとんど見られなくなる。この理由としては、高倉洋彰が『交流する弥生人』(2001年、吉川弘文館)で言及している耳朶の大きさの変化、浜本隆志が『アクセサリーが消えた日本史』(2004年、光文社新書)で言及している狩猟文化から農耕文化へと移り変わる過程でのアニミズムの変化など諸説がある。 さらに時代が移り古墳時代に入ると、遊牧騎馬民族(スキタイ)の影響と見られる垂れ飾りの付いた環状の金属製耳飾が出現している。これらは埴輪などに見られる痕跡から主に貴人が装着したと見られ、死後には埋葬品の一種として墓へ入れられた。近藤義郎は自著『農民と耳飾り』(1983年、青木書店)で、こうした耳飾り文化は支配者階級だけでなく、一般庶民にも広く普及していた可能性があると言及している。
後期古墳時代から確認し得る事実のみに焦点を当てて歴史を追っていくならば、『旧事本紀』に出現する物部氏の十種神宝が最初期となる。ここに登場する剣、鏡、玉、比礼は当時の祭祀の中核をなす呪具とされていた。物部氏は仏教を推奨する蘇我氏に敗れ、日本は大きな宗教的な転換期を迎える。しかし、それでも疫病の蔓延や天変地異が治まることは無く、645年に起こった乙巳の変から続く大化の改新により神仏習合がおこった。これにより十種神宝は三種の神器に改められ、勾玉は天皇の権威を象徴する祭祀具となってしまった。 さらに、646年に打ち出された薄葬令により、古墳造営の禁止、埴輪、殉死の禁止、貴金属等の副葬の禁止の方針が打ち出され、需要が無くなっていくと同時に勾玉をはじめとする装身具は神格化され、一般庶民が気軽に装身具を身に着けることができなくなる。ここに、古来より続いていた装身具の習俗は急速に衰えを見せ始めた。
平安時代に入ると、上流階級における美意識という概念に変化が見られるようになる。奈良時代に取り入れられた唐様式の衣服は十二単へと発展し、長く垂らした黒髪とともに流麗な文化を築き上げた。同時に、何重にも重ねた重い着物や長い髪は、女性の露出部を減少させ、行動に制約をかけることとなる。こうした服飾変化が結果的に装身具の必要性を排除していったと考えられており、同時に、身を飾り付ける行為よりも色彩や香りに重点がおかれるようになった。
一方で男性の装飾対象は、刀や鎧などの武具へと移り変わった。平安時代後期から鎌倉時代にかけて次第に武士が勢力を持つようになり、実用性や機能性に富んだ日本刀の発展と同時に、権威や権力を誇示するための飾を施した宝刀が登場している。また、戦闘方式の変化によって一騎討ちが主流となってくると、鎧や兜は相手を威圧し、存在感をアピールすることを目的としたものが好まれるようになる。こうした装飾品の発展が装身具を必要としない文化形成の一因となった可能性が春成秀爾や樋口清之などの研究者らによって指摘されている。
安土桃山時代に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、『日欧文化比較論』のなかで「我々の間では真珠は装身具の材料に用いるが、日本では製薬のために搗き砕くより他には使用されない。また、ヨーロッパの女性がつける宝石のついた指輪なども一切つけず、金、銀で作った装身具も身に着けない」と述べ、西洋文化と日本文化の違いについて言及している。こうした空白の文化は実に江戸時代を超え、明治時代の近世に至るまで実に1100年の長きに渡って継続した。
■ 佐野良彦
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の孫。佐野家の親戚には、開成学園の前身の共立学校を創立した佐野鼎加賀金沢藩士がおり、1895年(明治28年)共立学校が開成学園と改名されてから、2021年学校創立150周年という節目の年を迎える。
現在、東京大学大学院人文社会研究学科考古学専攻・修士課程として、日本における装身具(縄文耳飾)の歴史を調査・研究している。考古学とは、人類の歴史を遺跡や遺物を通じて明らかにする学問である。おもに文献を通じて明らかにする文献史学とともに、歴史学の一翼を担っている。したがって、文字のない時代の研究は、遺跡とそこから出土した遺物を分析することが考古学固有の研究方法であり、発見の喜びも加わって考古学の醍醐味ともなっている。そのためには、遺跡を発掘する能力や遺物を観察する考古学独自の能力を身につけなくてはならない。
日本において、装身具は呪術的な意味を持つシンボルとして縄文時代から古墳時代にかけて広く普及し、指輪、耳飾、腕輪、首飾、足飾など多数の形状の装身具が各地の墳墓より出土している。しかし、奈良時代以降、明治時代に至るまでの約1100年間、これらの装身具は忽然と姿を消した。海外からの文化移入という形で復活を果たした装身具は日本の近代化思想と相俟って爆発的な普及を果たし、今日に至っている。
縄文時代の遺跡から出土されている動物の牙やヒスイを用いた装身具の目的や用途は解明されていない点も多く、はっきりとは判っていない。装飾的な意味合いよりも魔除や呪術的な意味合いが強く、特に動物の牙を身に着ける行為に関して国立歴史民俗博物館の春成秀爾は自著『古代の装い』(1997年、講談社)の中で、「狩猟での成功を祈願した豊穣信仰の現れではないか」と推察している。また、新潟県の姫川・青海川を原産地とし、主に呪具として加工されたヒスイ製の装身具は北海道から朝鮮半島に至るまでの広範囲から出土しており、装身具が交易品として流通していた事実を示している。
ヒスイは動物の犬歯を模した勾玉として加工されたヒスイ製勾玉が特に知られており、竹と水を用いて孔を開け、アクセサリーとして身に着けた。勾玉文化は弥生時代に至るまでの東日本で広く見られ、一時的な断絶を経て古墳時代に全盛期を迎えた。材料は時代を追うごとに多様化し、碧玉、メノウ、ガラスなどの勾玉が登場している。
縄文時代には石を円形に刳り抜き、一部を削り取った玦状耳飾や、耳栓状耳飾が出土しており、主に女性の耳朶を穿孔してその孔に装着したと考えられている。これは中国との交流によって日本に移入された文化と推察され、人生の節目を自覚させるため、結婚や成人など通過儀礼の際に用いられたと指摘されている。しかし、この風習は弥生時代に入る頃にはほとんど見られなくなる。この理由としては、高倉洋彰が『交流する弥生人』(2001年、吉川弘文館)で言及している耳朶の大きさの変化、浜本隆志が『アクセサリーが消えた日本史』(2004年、光文社新書)で言及している狩猟文化から農耕文化へと移り変わる過程でのアニミズムの変化など諸説がある。 さらに時代が移り古墳時代に入ると、遊牧騎馬民族(スキタイ)の影響と見られる垂れ飾りの付いた環状の金属製耳飾が出現している。これらは埴輪などに見られる痕跡から主に貴人が装着したと見られ、死後には埋葬品の一種として墓へ入れられた。近藤義郎は自著『農民と耳飾り』(1983年、青木書店)で、こうした耳飾り文化は支配者階級だけでなく、一般庶民にも広く普及していた可能性があると言及している。
後期古墳時代から確認し得る事実のみに焦点を当てて歴史を追っていくならば、『旧事本紀』に出現する物部氏の十種神宝が最初期となる。ここに登場する剣、鏡、玉、比礼は当時の祭祀の中核をなす呪具とされていた。物部氏は仏教を推奨する蘇我氏に敗れ、日本は大きな宗教的な転換期を迎える。しかし、それでも疫病の蔓延や天変地異が治まることは無く、645年に起こった乙巳の変から続く大化の改新により神仏習合がおこった。これにより十種神宝は三種の神器に改められ、勾玉は天皇の権威を象徴する祭祀具となってしまった。 さらに、646年に打ち出された薄葬令により、古墳造営の禁止、埴輪、殉死の禁止、貴金属等の副葬の禁止の方針が打ち出され、需要が無くなっていくと同時に勾玉をはじめとする装身具は神格化され、一般庶民が気軽に装身具を身に着けることができなくなる。ここに、古来より続いていた装身具の習俗は急速に衰えを見せ始めた。
平安時代に入ると、上流階級における美意識という概念に変化が見られるようになる。奈良時代に取り入れられた唐様式の衣服は十二単へと発展し、長く垂らした黒髪とともに流麗な文化を築き上げた。同時に、何重にも重ねた重い着物や長い髪は、女性の露出部を減少させ、行動に制約をかけることとなる。こうした服飾変化が結果的に装身具の必要性を排除していったと考えられており、同時に、身を飾り付ける行為よりも色彩や香りに重点がおかれるようになった。
一方で男性の装飾対象は、刀や鎧などの武具へと移り変わった。平安時代後期から鎌倉時代にかけて次第に武士が勢力を持つようになり、実用性や機能性に富んだ日本刀の発展と同時に、権威や権力を誇示するための飾を施した宝刀が登場している。また、戦闘方式の変化によって一騎討ちが主流となってくると、鎧や兜は相手を威圧し、存在感をアピールすることを目的としたものが好まれるようになる。こうした装飾品の発展が装身具を必要としない文化形成の一因となった可能性が春成秀爾や樋口清之などの研究者らによって指摘されている。
安土桃山時代に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、『日欧文化比較論』のなかで「我々の間では真珠は装身具の材料に用いるが、日本では製薬のために搗き砕くより他には使用されない。また、ヨーロッパの女性がつける宝石のついた指輪なども一切つけず、金、銀で作った装身具も身に着けない」と述べ、西洋文化と日本文化の違いについて言及している。こうした空白の文化は実に江戸時代を超え、明治時代の近世に至るまで実に1100年の長きに渡って継続した。
■ 佐野良彦
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の孫。佐野家の親戚には、開成学園の前身の共立学校を創立した佐野鼎加賀金沢藩士がおり、1895年(明治28年)共立学校が開成学園と改名されてから、2021年学校創立150周年という節目の年を迎える。