遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

御殿山城(太田道灌館)

2020年05月08日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の縁戚である太田道灌公は、中世の江戸氏の居館跡に、長禄元年(1457年)に江戸城を築城した。御殿山城は太田道灌館とも呼ばれ、太田道灌公が江戸近辺に築いた多くの城館のひとつである。

『新編武蔵国風土記稿』によれば、太田道灌公が江戸城に入る前の長禄年間(1457年 - 1460年)に城を構えて居住していたが、夢のお告げがあったため江戸城に入り、御殿山城(太田道灌館)には家臣の宇多川和泉守長清を配置したと『道灌日記』に記載されている。当時は眼下に、浅草湊と並んで栄えた品川湊を見下ろす高台であった。

徳川家康公が江戸城に入ってからは、御殿山城は「品川御殿」と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休息所として利用された。その際、遠藤宗家甲賀百人組は、徳川将軍家が鷹狩りに御成りの際、警護を担った。また、幕府重臣を招いての茶会の場として利用されていたほか、桜の名所として有名であった。

しかし、元禄15年(1702年)2月11日 四ッ谷太宗寺付近の出火で、青山から麻布御殿へ至り、品川宿でようやく鎮火した。品川御殿は焼失し、8月14日に廃された。寛文年間(1661年 - 1673年)から桜が移植され、文政7年(1824年)の『宿差出明細帳写』(品川町史)によると、御殿山の面積は11,500坪(38,016平方メートル)、600本に及ぶ桜の名所として整備された。

東京都品川区北品川三丁目にある品川神社は、文治3年(1187年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である天比理乃咩命を勧請して祀り、品川大明神と称したのに始まる。 鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に北条高時の臣、二階堂道蘊が「宇賀之売命(稲荷神)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌公が「素戔嗚尊(天王神)」をそれぞれ祀った。

慶長五年(1600年)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の祭に品川神社を参拝して戦勝祈願し、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納し、天正19年(1591年)には徳川家康公から5石の社領の朱印を受け、徳川将軍家の尊崇する特別な神社として社紋も徳川家の家紋の「丸に三つ葉葵」と定め、「御修復所(神社の建物の再建・修復などは全て江戸幕府が賄う)」として徳川将軍家の厚い庇護を受けた。

寛永14年(1637年)に三代将軍徳川家光公が東海寺を建立した際には、境内の一部がその敷地となったため代替地を賜わり、神社の位置が東海寺の鬼門に当たることから、同社の鎮守とした。 明治元年(1868年)11月8日、明治天皇が品川神社を准勅祭社と定め、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社の一つとした。

サザコーヒー エキュート品川店で味わえる徳川将軍珈琲は、徳川幕府第十五代将軍徳川慶喜公曾孫・徳川慶朝 旧公爵徳川慶喜家第四代目当主〔昭和25年(1950年)2月1日 – 平成29年(2017年)9月25日〕が焙煎した最高級マンデリンをフレンチローストしたコーヒーである。

徳川慶朝氏は、元公爵で元貴族院議員の徳川慶光氏と会津松平家出身の徳川和子氏の子として、静岡市郊外の瀬名に生まる。生後1、2か月で東京都港区高輪に移住。昭和47年(1972年)に成城大学経済学部を卒業し、写真家として本田技研工業グループ傘下の広告制作会社東京グラフィックデザイナーズに20年間勤務し、広告写真の分野で活躍。独立後はフリーの写真家として主に徳川家伝来の遺跡や歴史的建造物を中心に撮影、自ら焙煎したコーヒー豆を"徳川将軍珈琲"の名で販売していた。

※画像:品川神社



■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である長女孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。三女里子は、遠藤武遠藤宗家第十五代当主夫人。太田道灌公は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。