遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

甲賀百人組

2020年08月18日
遠藤宗家の甲賀百人組とは、江戸幕府の鉄砲百人組の一つで、江戸の青山甲賀町(現在の神宮球場近辺)に集住した。与力二十人、同心百人で構成され、うち甲賀出身者は与力十人と同心百人全員であった。甲賀組は関ヶ原合戦の後、伏見城籠城戦で戦死した者の子孫を中心に結成されたとされている。

しかし、それ以前の慶長二年に、すでに郷士十名ほどが徳川家康公に御目見えしていた。その十名とは、後に与力となった者たちのことである。慶長五年、山岡道阿弥の披露によって再び家康公に謁見した。家康公会津出陣後は、関西の守りを命じられた。石田三成挙兵後は、地侍を引き連れて伏見城に籠城する。鳥居元忠、遠藤宗家の遠藤左太夫らと共に戦うが、伏見城は落城した。

その後、家康公は京都にて郷士十名を召し、関ヶ原合戦について委細を尋ねた。その際、郷士十名には二百石ずつ、郷士一人に連なる地侍十名にも計二百石を与えた。つまり、郷士一人とその配下で計四百石であり、郷士十人分で計四千石となる。これは『徳川実紀』の記述と一致する。またこの時、関東移住を打診されるが、甲賀者たちは断り甲賀在住を希望した。秀忠公・家光公上洛の際にも、京都でお目見えした。その間の慶長十九、二十年の大坂の陣にも、参陣している(これが後に幕府への仕官活動を展開する甲賀古士との決定的な差である)。

『吏徴別録』によれば、寛永九年(1632年)始めて江戸へ下り、その時を以て山岡景以(道阿弥の嫡養子)のもと、甲賀百人組が正式に成立した。五年後の寛永十四年には地元に戻って水口城(甲賀市水口町)の番を勤め、正保元年(1644年)に再び江戸へ下り、承応二年(1653年)に与力が十騎増え(甲賀出身者ではない)、この体制が幕末の文久二年(1862年)の百人組解体まで続くことになる。

長年、甲賀組は寛永十一年まで、甲賀にいたと考えられてきた。これは、甲賀古士らが後年幕府に提出した「乍恐以言上訴状仕候」に、寛永十一年の家光上洛の際に甲賀郡内でお目見えしたとあり、『甲賀郡志』などが、その御目見え後江戸へ下ったものと考えてきたからである(同書では「僅に大原氏以下数人上諭に従ひ江戸に転徒し」たと書かれるが、江戸後期の名簿を見ると、甲賀百人組に大原氏末裔はいても、大原姓の者はいない)。寛永十一年に家光公にお目見えした者の名簿(宮島家文書「御上洛御目見江帳」)が残っているが、そこに甲賀百人組の名前はほとんど見られない。これらのことから、寛永十一年より前に江戸に下ったと考えるのが妥当である。

甲南町杉谷望月家の過去帳にも「望月助之進重長 寛永九壬申歳、御公儀様甲賀古士御召相成、兄重元病身にて、次男助之進重長出勤仕、江戸青山に居所甲賀百人組相勤候」とあり、寛永九年に江戸移住したと書かれる。『吏徴別録』の通り、江戸に下ったのは寛永九年と考える。同書によれば、寛永十四年から正保元年までの七年間は近江国水口で勤めており、寛永九年の当初から甲賀組の大縄地(集住地)である江戸の青山甲賀町に住んでいたのかどうかは不明だが、甲賀組の菩提寺である高徳寺は、甲賀組の遠藤宗家、望月助之進外六名が開基、晃誉上人居的和尚(元和九年1623年寂)が開山となり、天正七年(1579)に創建した。


≪ 徳川実紀(東照宮御実記巻六)「慶長八年十二月廿日 山岡景友卒去の条」 ≫
関ヶ原の戦味方勝利して凶徒みな敗走すとき、入道[1]手の者引具し、城を出て川船に取のり大鳥居にさしかゝる時、長束大蔵少輔正家[2]が敗走して来るにゆきあひ。散々に打ちゝらし首百余切て又桑名城にをしよせ、氏家内膳正行広兄弟を降参せしめ、又神戸、亀山、水口等の城を請取て大津に参りしかば、大御所入道[3]がふるまひを感じたまふこと斜ならず、伏見にて討死せし甲賀土の子孫与力十人同心百人をあづけられ、近江国にて九千石の地をたまはり、其内四千石を以て士卒の給分にあてらる。今の甲賀組はこれなり。

≪ 吏徴別録 ≫
甲賀組、慶長二丁酉年、伏見に於いて召し出され、与力へ御合力米十石拝領、その後十人扶持下され、地侍同心一人に、三人扶持充拝領、関原已後江州甲賀郡に於いて、知行弐百石拝領(望月伴之助[4])、地侍十人に弐百石、合せて四百石拝領、十人の地侍は、伴之助組に仰せ付けられ、寛永九年壬申、初めて江戸へ罷り下り、山岡主計頭景以組に成り、内桜田御門番相勤め、同十年癸酉、蓮池御門番、同十四年丁丑、江州水口御殿番、正保元年甲申5月、江戸へ下り、坂部三十郎広利組に成り、大手三之御門番相勤め、承応二年癸巳、与力十騎増える(合せて二十騎)

≪ 甲賀組由緒書「望月津之助」 ≫
権現様上聞達し、慶長二酉年加々爪隼人正を以て召し出され、伏見御城に於いて御目見仰せ付けられ、御合力米拾石下し置かれ、同五子年会津へ御出陣の砌、御供願い奉り候処、山岡道阿弥披露にて拾人一同御目見仰せ付けられ思召しこれ有る間、御留守に相残り申すべき旨仰せ渡され御加増として拾人扶持三ヶ月分頂戴仕り、且又地侍拾人へ三人扶持づつ下し置かれ、御出陣已後石田治部少輔逆心仕り、伏見御城相改め候由、京都に於いてこれ承り地侍共馳参すべき旨申達し、直に伏見御城へ罷り越し、鳥居彦右衛門へ相連れ途中より罷り越候に付、御軍団の小数具足拝領仕り、名護屋丸へ籠城仕り候処(中略)
同年関ヶ原御陣相済も、御上洛の節、御前へ召し出され伏見籠城且落城の様子言上仕り候処、上意の旨本多佐渡守殿を以て仰せ渡され段は、先達て少分の御合力米下し置かれ候処、早速伏見へ馳参比類無き働御感悦思召しなされ候、これに依り江州甲賀郡野田村にて弐百石余の処下し置かれ、向後御近習へ召寄せ御取立も遊ばれ下し置かれるべく候えども、甲賀郡数代の住居、離れ候儀迷惑存じ奉るべく候間、諸役御免近国雑生御免仰せ付けられ候間、知行所に罷り在り御用の節は罷り出勤仕奉るべき旨仰せ渡され、且又伏見へ召連れ候地侍共拾人へ組合知行弐百石下し置かれ、組に仰せ付けられ候間、其の後代々支配仕り来る石の通り仰せ付けられ候に付、太刀折紙を以て御礼申上げ、権現様・大徳院様御上洛の節々、毎度京都へ罷り出御目見仕り、同十九寅年大坂冬御陣の節、知行所より組の者召し連れ御共仕り、水野日向守手に属し、御旗本に罷り在り、同二十卯年夏御陣の節同人に属し大和口へ相向かうの節、堀尾山城守家来野々山三郎左衛門・野中吉兵衛と申すもの山城守逆心これ有る由言上仕り候に付、御吟味中石両人・山岡主計へ御預けに相来り、甲賀郡の内鮎河村[5]、山中に差置き候処、元和三巳年右両人山城守へ下され、鳥疵附申さず様召捕り相渡すべき旨、御奉書にて主計へ仰せ付けられ候に付、同年十二月晦日同列梅田武左衛門と申合、御預の組の者召連れ罷り越し、三郎左衛門を召捕り、吉兵衛儀ハ武左衛門召捕り家来拾弐人者組のもの召捕り申候、大猷院様御上洛の度々京都へ罷り出、御目見仕る(以下略)

【 注釈 】
[1]入道:山岡景友。(かげとも。山岡道阿弥。1540-1603)
[2]長束大蔵少輔正家:長束正家。
[3]大御所入道:徳川家康。
[4]望月伴之助:甲賀組の由緒書から、望月津之助の誤りと思われる。
[5]鮎河村:現在の甲賀市土山町鮎河及び大河原。

【 画像 】
関ケ原合戦絵巻(国立国会図書館ウェブサイト)
燃える伏見城で戦う鳥居元忠と雑賀孫一。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、遠藤榮第十五代当主(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、遠藤寛第十七代当主(弁護士)に至る。