遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

多聞山天現寺

2020年08月20日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。

4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。

甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮等の参詣や鷹狩の際には警固を行った。

東京都港区南麻布の天現寺は、小日向御簞笥町にあった臨済宗大徳寺末の普明寺を引継ぎ享保四年(1719年)現在地に移築して多聞山天現寺と改め、新たな法幡を竪起することとなった。開山は広尾祥雲寺八世怡溪和尚の法嗣、良堂大和尚で、正徳三年(1713年)祥雲寺住職となり、同六年紫衣を賜った。その後、京都紫野大徳寺第二百九十三世の住職となり、享保四年(1719年)当山開基、同年六月品川東海寺五十四世の輪住となり享保十八年(1733年)四月二十九日遷化された。

同寺は多聞山の山号が示すように、本尊として毘沙門天の像(樟の丸木作り、高さ103.5センチメートル)をおまつりしている。(秘仏の為、開扉日が定められている)毘沙門天は多聞天とも称され、四天王の御一人で降魔相を現じて仏国土と衆生を守護する願誓を持ち又、七福神の中にも入れられ、民俗信仰の対象ともなっている。

同山の毘沙門天は享保十二年(1727年)の林大学頭信充の縁起書(天現寺蔵)によると聖徳太子の御作と記され、多田源氏満仲の念持仏で源氏累代の尊信深く、家康公の生母お大の方も深く信仰し、後に近臣、安部大蔵信春に預け香華供養をさせた。嫡子、弥一郎信包の時仙石壱岐守久信に伝えた。信包の母は霊夢を感じて在家に安置しておくのは恐れ多しと祥曇寺の怡溪和尚に預け、法嗣、良堂和尚はあまりに霊験あらかたなために、将軍家に特に願い出、将軍家祈禱所として一堂を建立し安置供養した。

爾来、同寺は八代将軍吉宗公を初めとして代々将軍家の御成があり、広尾の毘沙門堂として人々の信仰を集めていたが、弘化二年(1845年)江戸大火に類焼した。その後、八世中興古道和尚は茶禅一味の教法にて信徒を教導し、除々に諸堂宇の復興をされ、九世輝道和尚の頃より檀徒の数も時勢につれて増えて来るようになった。十世英宗和尚の時、改めて本堂を改築し檀信徒のよき帰衣の場とされて来たが、わずか三十ヶ年で第二次世界大戦の為鳥有に帰してしまった。

昭和八年先住禅龍宗珉和尚(俗姓柴山、明治三十九年~)が、英宗和尚法嗣として天現寺十一世住職となり、在任中大戦での戦禍の痛手を回復すべく、東奔西走し、ついに昭和四十二年その志を遂げ十月二十九日、目出度く再興落慶入仏供養が営まれた。そしてこの度、十二世一道義光和尚にその法が承け嗣がれた。

遠藤榮 遠藤宗家第十五代当主(大正天皇侍従)の千駄ヶ谷屋敷は、同寺(くに氏ほか)から行儀見習いを受け入れていた。

江戸中期の元禄時代以降、商家や上層農家の娘などが、大名家や旗本武家屋敷のもとへ数年間奉公に出る際に、上女中として仕える習わし(行儀見習い)があり、結婚前の女性に対する礼儀作法や家事の見習いという位置づけがなされていた。それは、高尚な作法や教養を身につけることができたからである。

雇用者夫妻の身の回りの世話をはじめ、外出のお伴、子弟の養育、仏壇回りや上座敷の掃除などを担い、使いに出る際、帰宅した際には雇用者夫妻に口上を述べた。また、雇用者宅を訪ねる客人への接待を通じて、物言いや挨拶の仕方を会得しつつ、人物を見る目を養ったとされる。並行して、裁縫、生け花、お茶などの女性としてのたしなみを身につけた。


≪ 境内の案内 ≫
■ 芭蕉句碑
庭の築山の麓に芭蕉句碑がある。 「伊賀の国花垣の花はそのかみ奈良の八重桜の料に附されけるといひ伝えければ」と前書し『一里はみな花守の子孫かや』。ばせを。この句碑の裏に文政六葵未初冬『其薫四方に満つるや八重桜』。ともある。恐らくその頃当寺に有名なしだれ桜があったと記録されているが、それにちなんで文政の頃ここで句会が催され句碑が立ったのではなかろうかと、考えられる。

■ 四神碑
境内に『四神碑』がある。硯、墨、紙、筆、を祀ったものである。同寺の鎮守は天満大白在天神である。 

■ 育王塔
この塔は、三国伝来の育王塔と称せられ、一説には清和帝の御陵にあったものとも云われている。西紀前三世紀頃、印度の阿育王は、釈尊の仏徳を讃えて、金印度に八万四千の宝塔を建立した。それにちなんで、育王塔と名づけたものである。



■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。