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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
江戸城百人番所(皇居東御苑)
2020年09月13日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
現在、江戸城本丸、二の丸、三の丸跡に整備された庭園が皇居東御苑である。皇居東御苑は、大手門、平川門、北桔橋門から入苑できる。皇居東御苑内で、同心番所の前を抜け、本丸大手門(大手三の門)の渡櫓門石垣の間を抜けると、百人番所がある。数少ない江戸時代から残る江戸城の遺構で、検問するだけでなく、幕府直轄の精鋭部隊、鉄砲百人組が有事に備えて詰めていた。百人番所は、本丸と二の丸へ通じる要所である「大手三の門」を守る重要な番所であった。
江戸時代に警備を担当したのが、徳川将軍家と縁故のある甲賀組、伊賀組、根来組、廿五騎(にじゅうごき)組が、昼夜交代で詰めていた。与力20人、同心100人が詰めていたことから、百人番所の由来となった。
甲賀忍者で知られる甲賀組、服部半蔵を祖とする伊賀武士の伊賀組、紀州根来(和歌山県那賀郡)の根来寺の僧兵に由来する根来組、そして黒田家家臣によって構成された精鋭部隊の廿五騎組(二十五騎組)であった。
百人組は、甲州街道沿いの甲賀組・青山、伊賀組・大久保、根来組・市ヶ谷、二十五騎組・内藤新宿に組屋敷を構えていた。いざという時に、徳川将軍は江戸城半蔵門から抜け出し、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子千人同心が守る八王子を経由して、甲斐(山梨県)の甲府城に逃れる計画になっていた。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
現在、江戸城本丸、二の丸、三の丸跡に整備された庭園が皇居東御苑である。皇居東御苑は、大手門、平川門、北桔橋門から入苑できる。皇居東御苑内で、同心番所の前を抜け、本丸大手門(大手三の門)の渡櫓門石垣の間を抜けると、百人番所がある。数少ない江戸時代から残る江戸城の遺構で、検問するだけでなく、幕府直轄の精鋭部隊、鉄砲百人組が有事に備えて詰めていた。百人番所は、本丸と二の丸へ通じる要所である「大手三の門」を守る重要な番所であった。
江戸時代に警備を担当したのが、徳川将軍家と縁故のある甲賀組、伊賀組、根来組、廿五騎(にじゅうごき)組が、昼夜交代で詰めていた。与力20人、同心100人が詰めていたことから、百人番所の由来となった。
甲賀忍者で知られる甲賀組、服部半蔵を祖とする伊賀武士の伊賀組、紀州根来(和歌山県那賀郡)の根来寺の僧兵に由来する根来組、そして黒田家家臣によって構成された精鋭部隊の廿五騎組(二十五騎組)であった。
百人組は、甲州街道沿いの甲賀組・青山、伊賀組・大久保、根来組・市ヶ谷、二十五騎組・内藤新宿に組屋敷を構えていた。いざという時に、徳川将軍は江戸城半蔵門から抜け出し、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子千人同心が守る八王子を経由して、甲斐(山梨県)の甲府城に逃れる計画になっていた。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。