遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

千駄ヶ谷

2020年11月01日
千駄ヶ谷の地名の由来は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚である太田資和氏の祖先で、江戸城を築城したことで有名な太田道灌公が巡見の際「この谷間の稲千駄もあるべし」といったことによる(紫の一本)など萱に因む説と、「千駄焚き」(千駄木を焚いた雨乞い)をした谷(や・やつ・やと)であるという説(渋谷区史)がある。米の代わりに千駄の萱を納めることになっていた。尚、1駄は2~4束、駄馬1頭の運ぶ量で36貫(135kg)。「千駄ヶ谷」の名は戦国期に見える地名で、初見は『役帳』に島津孫四郎分の所領として、8貫640文千駄ヶ谷とある。江戸期の千駄ヶ谷村の地かと考えられる。

「千駄ヶ谷村」は、武蔵国豊島郡野方領は、幕府領と西福寺、吉祥寺、霊山寺の3寺領の相給地、1693(元禄6)年根生院領20石が加わった。村高は『田園簿』では、田185石余、畑219石余で計404石余、『元禄郷帳』では350石余、『天保郷帳』では473石余、『旧高旧領』では464石余。助郷は甲州街道内藤新宿に出役。桃の葉、杉の葉を上納し、また、駒場野に近く中野筋の御鷹場であった。化政期(1804~1830年)の村の状況は、家数23軒。千駄ヶ谷は自然状態で一円の野水を集めた谷沢であり、玉川上水堀が村の西北を流れ、千駄ヶ谷橋が架かり、その支川は「除水堀」と呼ばれ、石橋2、板橋1が架かっていた。尚、除水堀は天竜寺の脇に暗渠になっており、今も残る。江戸時代は内藤屋敷の南縁を成して、内藤田圃を潤した。明治になって旧旗本屋敷や田畑は新宿御苑の敷地となり、日本庭園を造成して現在の池水に拵えた。1713(正徳3)年に千駄ヶ谷町、1746(延享3)年に千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷神明門前、千駄ヶ谷瑞円寺門前(町)、千駄ヶ谷聖輪寺門前が町奉行支配となる。

北寄りの1590(天正18)年以来の信濃高遠藩内藤氏の屋敷地は、1683(天和3)年、1697(元禄10)年の2度に亘りその一部が上知され、新道が設けられて旗本御家人等の屋敷地となり、一帯は「内藤宿新屋敷」、「千駄ヶ谷新屋敷」と呼ばれた。この地域には与力、同心、小人、黒鍬者、御掃除役等の下級役人の大縄屋敷が散在し、百姓地と接する外れに大名屋敷があった。美濃加納藩永井氏、紀伊和歌山藩徳川氏、肥前佐賀藩鍋島氏の各抱屋敷、出雲松江藩松平氏、大和郡山藩柳沢氏、下野宇都宮藩戸田氏、遠江相良藩田沼氏の各下屋敷、三河苅谷藩土井氏の中屋敷があった。この地の拝領屋敷で晩年を過ごした新井白石は、「青麦阡々秀 紅桃樹々春 烟中聴犬吠 似有避秦人」と一面の麦畑の千駄ヶ谷風景を歌い(享保2年室鳩巣宛書状)、1725(享保10)年ここに没した。

総鎮守千駄ヶ谷八幡宮は、白鳩が多数西をさして飛び去った霊端により「鳩森八幡宮」とも呼ばれ(江戸名所)、860(貞観2)年慈覚大師の勧請。社前の南北の道は、旧鎌倉街道であった。別当は、曹洞宗相模国高座郡遠藤村宝泉寺末高霊山金剛院瑞円寺。1649(慶安2)年、家光公が鷹狩りの際に放った鷹鈴掛の止まった松が境内にあり、近くの寂光寺の遊女の松とともに東武三十六名松に数えられたという(砂子、東京名所)。日蓮宗仙寿院の庭園は、谷中日暮里に似ていることから「新日暮里」と呼ばれ、文政(1818~1831年)・天保(1831~1845年)年間頃から桜の名所となり、参詣人に売られた「お仲団子」は「江戸百のれん」の1つとして銘菓に数えられた(東京名所)。

遠藤宗家甲賀武士の甲賀稲荷神社は、1885年(明治18年)に建立された。青山練兵場(現在の外苑)設置のために鳩森八幡神社に遷座、合祀されることになる。昭和初期に神主であられた矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、この鳩森神社も甲賀衆と縁のある神社で、1938年(昭和13年)13年5月に神社の前に安置した神像の中から、『御修覆記』並びに『奉納、甲賀百人姓名書』が発見される。

この文書は、1847年(弘化4年)のもので甲賀組が米と金を寄進したという記事が伝えられている。その中に【御納戸同心 遠藤左太夫】と記されている。これは、明治時代に高徳寺檀家総代、甲賀稲荷神社氏子大惣代を務めた遠藤榮 遠藤宗家第十五代当主の祖父である、遠藤宗家第十三代当主にあたる。御納戸同心とは、德川将軍家の金銀、衣類、調度品などを管理する職務。

江戸期の千駄ヶ谷は武家屋敷で占められており、「黒鍬町」「御切手町」「日陰町」等、本来は町ではないが便宜的に用いられていた俗称地名が主流であり、町人の住む純粋な町屋はその隙間に僅かに存在していた千駄ヶ谷町と内藤新宿六軒町のみであった。当町は、千駄ヶ谷八幡(現・鳩森八幡神社)や聖輪寺の周辺、JR千駄ヶ谷駅の周辺や六道の辻等の西南側等、隠田川東西各所に点在していた。

浅草の西福寺(東光山・良雲院)は寺領のうち、千駄ヶ谷方面にある町屋を支配していた名主金兵衛を、年貢納入不行届の廉で退役させ、後任者が見付かるまで組合名主の勘四郎に事務を執らせたい旨を、町年寄に願って来た(1851(嘉永4)年正月)。千駄ヶ谷村には武家地を除いて、吉祥寺、西福寺、霊山寺の寺領が入り組んでいる。各寺領のうち、追々と町家作を建てたところは、1746(延享3)年に町奉行支配となり、千駄ヶ谷町となっていた。

しかし、現実には、前記3寺の寺領が入り組んでいるので、惣名は千駄ヶ谷町であるが、それぞれの寺領ごとに、寺号を冠せて「〇〇寺領千駄ヶ谷町」と称えていた。金兵衛は西福寺領千駄ヶ谷町の他、「霊山寺領千駄ヶ谷町」、「千駄ヶ谷神明門前」、「千駄ヶ谷瑞円寺門前」、「千駄ヶ谷聖輪寺門前」の名主を、前記勘四郎(吉祥寺領千駄ヶ谷町名主)と共に勤めていた。尚、「西福寺領千駄ヶ谷町」が24ヶ所も散在し、吉祥寺領千駄ヶ谷町は約10ヶ所、霊山寺領千駄ヶ谷町は約13ヶ所存在し、町境を接したり、武家地と隣接したりしていた。

慶応4年11月5日(1868年12月18日)、東京府に所属。東京府豊島郡に所属。1872(明治5)年、区域内から千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷一~三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目の各町がそれぞれ起立。同年の戸数172・人口680、米、雑穀、蔬菜、桑、生茶、素麺、楽焼物を生産していた(府志料)。1876(明治9)年6月、村立千駄ヶ谷小学校開校。

1878(明治11)年11月2日、東京府南豊島郡に所属。1879(明治12)年9月27日(4月22日か)、千駄ヶ谷一~三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町を再び千駄ヶ谷村に合併。1889(明治22)年5月1日、原宿村、隠田村と合併して成立した千駄ヶ谷村の大字千駄ヶ谷となる。同時に1879(明治12)年に編入された千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町と字火薬庫前、字川向、字池尻、字霞岳は四谷区に編入された。

1895(明治28)年の戸数1,001・人口3,850(渋谷区史)。同年、甲武鉄道(現・JR中央線)が開通。1896(明治29)年4月1日、東京府豊多摩郡に所属。1904(明治37)年8月に千駄ヶ谷駅、1906(明治39)年10月には代々木駅が開業。この頃、急激な人口の集中により市街化がほぼ完成。

1907(明治40)年4月1日、町制施行し、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町となる。同年の戸数3,837・人口1万7,313。1928(昭和3)年5月、町営水道給水開始。1932(昭和7)年10月1日、渋谷町、代々幡町と合併し、東京市に編入。3町の区域をもって渋谷区が誕生。隠田一~三丁目、原宿一~三丁目、千駄ヶ谷一~五丁目、千駄ヶ谷大谷戸町となる。

画像:鳩森八幡神社、甲賀稲荷神社


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。