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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
借地の歴史と立法の背景
2020年11月02日
遠藤宗家が属していた甲賀百人組は、德川家康公が江戸城に入府してから青山百人町にあった青山甲賀屋敷(現在の表参道駅にある善光寺周辺に位置する)、千駄ヶ谷甲賀屋敷(現在の千駄ヶ谷にある国立競技場)、青山権田原の鉄砲演習場を幕府から拝領した。
甲賀百人組であった遠藤市次郎 遠藤宗家第十四代当主は、千駄ヶ谷一帯に広大な土地を所有していた。しかし、明治維新以降の土地利用に対しては、封建的な江戸時代から一変する。いち早く市民社会になっていた西洋から民法が導入され、土地の絶対的な所有権がいわれ始めた。一方、明治政府は財政の安定のため、税を金納させることとし、納税義務者を土地の所有者とした。このために発行された地券には、地名・地番・地種・地積・地価額・地租額とともに、所有者が明記された。やがて地券は、現在まで続く登記制度に引き継がれることとなった。
こうして土地の所有は、納税の義務を伴うことになった。しかし、地価3%という高額であったため、庶民には入手困難であった。土地持ちの農民の中には、自ら地域の有力者に所有権を譲り、小作となる者も出てきた。また、都会で家を持ちたいと思っても土地が高額であることから、借地に家を建築した。こうして、都会を中心に借地人が増加した。
明治時代は日本が富国強兵を進め、資本主義国家に生まれ変わった時代である。産業が発達し、都会は便利になるが、土地の価格は上昇した。地主は、より有利な土地利用、地代の上昇を期待することとなる。民法の原則は、「売買は賃貸借を破る」であり、土地の所有者が変われば、借地人は建物を取り壊し、土地を明け渡さなければならない。地主同士で形式的な売買契約を交わせば、借地人を追い出すことも可能だった。地震の時のように建物が取り壊されたため「地震売買」と呼ばれていた。これが社会問題となり、明治42年に「建物保護に関する法律」が制定され、借地人は建物を登記すれば、地主に対抗できるようになった。
日本は日清、日露戦争を経て欧米諸国に肩を並べるまでになり、「大正デモクラシー」が謳われた。そうした時代の大正10年に、現行の借地借家法の前身である「借地法」「借家法」が成立した。借地人の法的地位を安定させる趣旨であった。
借地権とは「建物の所有を目的とする地上権ないし賃借権をいう」という定義からはじまり、借地権の存続期間が建物の構造により20年以上、30年以上となること、契約の更新、建物の改築、再築にあたって地主の承諾を得ること、など現在にまで通じる考え方が定まった。
さらに戦時中の昭和16年に「正当事由」制度が導入された。太平洋戦争目前の、軍国主義の時代、賃借人が多いであろう出征兵士の銃後の暮らしを守るため、借地契約の更新を拒絶することをほとんど不可能とした改正であった。また「国家総動員法」によってあらゆるものを国が決めていたこともあり、賃料も公定価格であった。ある意味で地主にとっては、受難の時代となった。一度土地を貸してしまえば、他の用途に変更することもままならず、賃料を上げることもできなかった。
終戦後、賃料こそ次第に統制から外れたが、この正当事由制度は残され「土地は一度貸したら返ってこない」というのが通例となった。戦後のどさくさで、家に困った人に善意で土地を使わせたところが、居座られてしまったとか、自分が使う時には返してもらうつもりで期間を限定して土地を使わせたつもりが、いつまでも明け渡してくれないなどという地主の嘆きが続いた。当然ながらこうなると地主はこれ以上土地を貸すことを渋り、土地の活用もままならない状況となった。日本が復興し、高度成長を成し遂げていた時代も、借地制度については、ほとんど手付かずのままであった。
やがて地価が上がり続けるという「土地神話」の下で、過剰なお金の流れからバブルが膨らみ、突然、破裂することになり、日本経済は低迷の時期を迎えた。バブルの反省から、土地を保有するよりも利用することへ価値観を移したい、という「土地基本法」が平成元年に成立。その流れの中で、土地の利用を阻害している借地制度が問題となった。そこで土地利用、すなわち新たな借地供給を進めるために、新たな借地、定期借地権が導入されることになった。これまでの3つの法律(建物保護に関する法律、借地法、借家法)は、この機会に平成3年「借地借家法」に一本化されることとなる。
ただし、これまで長い間続いてきた借地関係を一朝一夕に変更させることには無理があった。そこで新しい借地については新法、既存の借地については、旧法の規定の多くがそのまま適用された。契約の更新にあたっても従前の契約内容が引き継がれた。そのことが、多くのトラブルを招いているともいわれている。旧法の適用される借地は、昔ながらの土地を継いでいるため、地主も借地人も代替わりしている場合が多く、契約内容があいまいだったり、契約書そのものがなかったりした。また、途中で新法に切り替えることはできないため、地主、借地人の双方が旧法のことを踏まえた交渉をする必要があった。
このように軍国主義の時代に強化された旧法は、現状のまま住み続ける限り、借地人にとって有利であり、地主には不条理で不利な内容もある。罹災都市借地借家臨時処理法(昭和21年8月27日法律第13号)は、法律制定当初の昭和21年は空襲などの戦争被害による罹災にたいして適用することを目的としていたが、昭和22年の改正により、別に法律で定める天災で建物が滅失した場合にも準用することになり、1956年の法改正で天災の指定を政令で行うことになった。 大規模な災害の被災地における借地借家に関する特別措置法の施行により、平成25年9月25日に廃止された。
しかし、借地をいざ活用しようとすると、借地人にとって地主の承諾は相変わらず必要であり、売却をするにしても地主の協力がないと有利な条件は望めない。新法によって、今後は、借地も合理的な契約締結が期待できるが、まずはこのような借地誕生の背景を知り、十分な知識を持って、相手の立場にも理解を示しながら、交渉することが必要である。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
甲賀百人組であった遠藤市次郎 遠藤宗家第十四代当主は、千駄ヶ谷一帯に広大な土地を所有していた。しかし、明治維新以降の土地利用に対しては、封建的な江戸時代から一変する。いち早く市民社会になっていた西洋から民法が導入され、土地の絶対的な所有権がいわれ始めた。一方、明治政府は財政の安定のため、税を金納させることとし、納税義務者を土地の所有者とした。このために発行された地券には、地名・地番・地種・地積・地価額・地租額とともに、所有者が明記された。やがて地券は、現在まで続く登記制度に引き継がれることとなった。
こうして土地の所有は、納税の義務を伴うことになった。しかし、地価3%という高額であったため、庶民には入手困難であった。土地持ちの農民の中には、自ら地域の有力者に所有権を譲り、小作となる者も出てきた。また、都会で家を持ちたいと思っても土地が高額であることから、借地に家を建築した。こうして、都会を中心に借地人が増加した。
明治時代は日本が富国強兵を進め、資本主義国家に生まれ変わった時代である。産業が発達し、都会は便利になるが、土地の価格は上昇した。地主は、より有利な土地利用、地代の上昇を期待することとなる。民法の原則は、「売買は賃貸借を破る」であり、土地の所有者が変われば、借地人は建物を取り壊し、土地を明け渡さなければならない。地主同士で形式的な売買契約を交わせば、借地人を追い出すことも可能だった。地震の時のように建物が取り壊されたため「地震売買」と呼ばれていた。これが社会問題となり、明治42年に「建物保護に関する法律」が制定され、借地人は建物を登記すれば、地主に対抗できるようになった。
日本は日清、日露戦争を経て欧米諸国に肩を並べるまでになり、「大正デモクラシー」が謳われた。そうした時代の大正10年に、現行の借地借家法の前身である「借地法」「借家法」が成立した。借地人の法的地位を安定させる趣旨であった。
借地権とは「建物の所有を目的とする地上権ないし賃借権をいう」という定義からはじまり、借地権の存続期間が建物の構造により20年以上、30年以上となること、契約の更新、建物の改築、再築にあたって地主の承諾を得ること、など現在にまで通じる考え方が定まった。
さらに戦時中の昭和16年に「正当事由」制度が導入された。太平洋戦争目前の、軍国主義の時代、賃借人が多いであろう出征兵士の銃後の暮らしを守るため、借地契約の更新を拒絶することをほとんど不可能とした改正であった。また「国家総動員法」によってあらゆるものを国が決めていたこともあり、賃料も公定価格であった。ある意味で地主にとっては、受難の時代となった。一度土地を貸してしまえば、他の用途に変更することもままならず、賃料を上げることもできなかった。
終戦後、賃料こそ次第に統制から外れたが、この正当事由制度は残され「土地は一度貸したら返ってこない」というのが通例となった。戦後のどさくさで、家に困った人に善意で土地を使わせたところが、居座られてしまったとか、自分が使う時には返してもらうつもりで期間を限定して土地を使わせたつもりが、いつまでも明け渡してくれないなどという地主の嘆きが続いた。当然ながらこうなると地主はこれ以上土地を貸すことを渋り、土地の活用もままならない状況となった。日本が復興し、高度成長を成し遂げていた時代も、借地制度については、ほとんど手付かずのままであった。
やがて地価が上がり続けるという「土地神話」の下で、過剰なお金の流れからバブルが膨らみ、突然、破裂することになり、日本経済は低迷の時期を迎えた。バブルの反省から、土地を保有するよりも利用することへ価値観を移したい、という「土地基本法」が平成元年に成立。その流れの中で、土地の利用を阻害している借地制度が問題となった。そこで土地利用、すなわち新たな借地供給を進めるために、新たな借地、定期借地権が導入されることになった。これまでの3つの法律(建物保護に関する法律、借地法、借家法)は、この機会に平成3年「借地借家法」に一本化されることとなる。
ただし、これまで長い間続いてきた借地関係を一朝一夕に変更させることには無理があった。そこで新しい借地については新法、既存の借地については、旧法の規定の多くがそのまま適用された。契約の更新にあたっても従前の契約内容が引き継がれた。そのことが、多くのトラブルを招いているともいわれている。旧法の適用される借地は、昔ながらの土地を継いでいるため、地主も借地人も代替わりしている場合が多く、契約内容があいまいだったり、契約書そのものがなかったりした。また、途中で新法に切り替えることはできないため、地主、借地人の双方が旧法のことを踏まえた交渉をする必要があった。
このように軍国主義の時代に強化された旧法は、現状のまま住み続ける限り、借地人にとって有利であり、地主には不条理で不利な内容もある。罹災都市借地借家臨時処理法(昭和21年8月27日法律第13号)は、法律制定当初の昭和21年は空襲などの戦争被害による罹災にたいして適用することを目的としていたが、昭和22年の改正により、別に法律で定める天災で建物が滅失した場合にも準用することになり、1956年の法改正で天災の指定を政令で行うことになった。 大規模な災害の被災地における借地借家に関する特別措置法の施行により、平成25年9月25日に廃止された。
しかし、借地をいざ活用しようとすると、借地人にとって地主の承諾は相変わらず必要であり、売却をするにしても地主の協力がないと有利な条件は望めない。新法によって、今後は、借地も合理的な契約締結が期待できるが、まずはこのような借地誕生の背景を知り、十分な知識を持って、相手の立場にも理解を示しながら、交渉することが必要である。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。